大塩平八郎を読む

「大塩中斎」、宮城公子編集、洗心洞箚記、檄文、1959年発行、日本の名著第27巻、中央公論社

なぜこの本を読むのか

ウクライナの戦争などあり危機の時に学者の評論などたくさん見るにつけ、学者や評論家の本音はどこにあるのかとか、あなたは主体的にこういう時どういう行動を起こしますかというようなことを聞きたくなることがたくさん出てきた。学者や評論家というのはあるテーマだけに絞って出てきていかにも訳知り顔に語るのではあるが、はっきり言ってどうなっていくのかはよくわからないというのが実情だし、そういう学者や評論家も本当のところはわからないといったほうがいいのだろう。こういう問題が起こった時に知っておくべきことや背景などは学者や評論家の真骨頂となるところである。しかし本質は現実なので、預言者でない限り非常に予測不能であるし、将来を見据えることもできないだろう。学問と現実のせめぎあいの葛藤の中に彼らはいるのか、いないのかなどと考えているとふと、学者だった大塩平八郎がなぜ大阪で大反乱を起こしたかということに非常に興味を覚えることとなった。その彼の陽明学というものに革命的な反乱的な思想が含まれているのか、それともそれとは関係なく指導者としてやむに已まれずの事だったのかとかはっきり言えば彼の動機と彼の学問との関係を知りたくなった。大学の先生で革命を目指す人なんて言うのはほとんどいない。マルクスは学者ではあっても大学の先生ではなかった。大塩も在野の学者だった。しかし公務員として何年か幕府に仕えたのである。それも与力というから今の警察である。基本的には体制側の人である。また陽明学というのも革命の思想ではなく支配体制側の思想であるはずだ。しかし彼特有の何かがあるのかめくら蛇におじず、でこの超むつかしい洗心洞箚記を読み始めた。

大塩平八郎

彼のことをウイキペディアで参照してみる。

1793年寛政5年生まれ1837年天保8年没

14歳大坂東町奉行所与力見習い

25歳与力

31歳陽明学を独学で修め洗心洞を自宅に開く

37歳与力を辞す

事件に関係するものとしては

天保の大飢饉

天保4年から5年(1833から34年)

天保7年から8年(1836年から37年)

特に後半の天保の飢饉がひどかったようだ。

また当時米一揆百姓一揆が頻発。甲斐、三河。奥羽地方では10万人の死者が出た模様。

大塩平八郎の乱は1837年、檄文とともに農民と訓練された一部の武士たちとともに豪商の家を焼き払い大砲をもって出陣したが事前に密告などもあり成功せずに終わった。この経緯も面白いものがあるが、これには触れずに彼の著作を検討したい。

洗心洞箚記(心を洗う洞のノート、という意味)

1833年発行

彼の本を一渡り読んでみる。なかなかむつかしい。基本は政治学あるいは政策学、その中心に哲学がある。また哲学の中心に倫理学があり、どういう政治が必要か、そのためにはどういう考え方が必要か、その考え方はどうして出てくるのか。その考え方がよければどういう実践があるのか、その時の精神は何か。この思想はどういう人が持つべきなのか。この中央公論社日本の名著、シリーズは漢文を和訳してもらっているので読めないことはない。しかし彼のいうところの言葉は難解である。知行合一、格物致知、太虚、致良知などがキーワードであるが、これらの言葉は概念規定のない言葉でいろんな文章を読んで分かったと思って進んでいくしかないような言葉である。

私のつかんだこれらの言葉の考え方、内容について

この本の概略はいろんな儒学者、孔子から始まるような人たちの思想の理解についてコメントしていくような内容である。そのコメントというのは彼の陽明学とどんな関係にあるのかというような内容であり、その類似と違いが自分の思想を明確にしていくようなところがある。だからノートといっても自らの思想を中心に語っていくのではないが、自然と彼の思想のがどこにあるのかということがわかるようになっている。またこの本は上下に分かれており、後半が重要と思われる。

彼の思想の骨子は太虚と致良知のこの二つだ。

太虚とは、宇宙大の空間における法、宇宙理性、神のようなものであろう。またこの太虚は心の空間にもあるので個人の世界にもこの宇宙があり、通じ合っている。君子はこの太虚を悟り太虚に身を預けられれば聖賢と言える。真理がそこにあるというような内容である。これもはっきりした定義はないが言わずとそういう感覚はわかる。またこれは、儒教特有なのかもしれないが、君子、小人とあり、りっぱな人かそうでないかと人間がわかれる。日本儒教の限界といわれるこの思想は、誰の知識か、誰のための知識か、何のための知識かというようなところが問題となる。農民や商人はこれに入らないというのがふつうである。女、子供はましてはいらない。要するに支配層の政治、国を治めるときの思想である。しかしながらこの陽明学も宇宙の真理までも問題とするのである。支配層が真理に意識が向けられていれば政治も何とかなるということになるので、支配層の倫理観が非常に厳しく問われるような思想である。これはあと一歩のところにある。要するに被支配層も支配層もそのあるといわれる究極の真理に自覚し自己の倫理を見直すとすればある意味西洋のプロテスタンティズムのような世界が生まれる可能性もある。しかしこの大塩の思想を突き詰めていけば人間はだれでも究極の真理に目覚めることが可能である、というところまで行きそうになっているのである。

私はここに大塩の乱が起こった原因ありと見ている。江戸幕府の爛熟と腐敗とはかねてより言われてきたことであり、それがゆえに、明治維新にて敗北し幕府の時代は終わった。つまり、大塩の論理で言えば経世済民は支配層の倫理観が非常に重要になってくる。そうでなければ政治がうまくいくはずがないと。宮城公子氏の解説も明快にはしていないがそういうことを示唆しているのではないだろうか。

致良知もこの真理を知りそれを実行に移すのが支配層の重要な役目である。政治に携わる人の重要な考え方であるとみている。

つまりこの陽明学を突き詰めていけば、宇宙万物すべてのものが真理に従うべきものであり,真理に従うときに良き政治が行われ、かつ良き生活が出来るという事になるのである。決して彼が農民について同情していたとかいうことではない。世界はこの真理に従うべきであるということからすれば、従わない人たちはおかしいということになる。かつこの実行、実践というのが大塩の大命題なのである。そこが陽明学の危険なところか。たぶんその真理を知ったならそれを実践する。生死を問わない。真理のためであればどうなろうと実践するという硬い思想が大塩の思想である。このことはいろんな箇所に出てくる。そんなに真面目に真剣になっていいのかというような感じもするが、彼はその儒教に生きているので真剣である。一秒も無駄にせず、精進し太虚の真理を得るまで読書をし致良知を目指しているのである。

大体読んでみればわかるが、なかなか厳しい内容でありすべてにおいて現実批判的である。

事件との関係

またこれを著した時というのはまだ若い時期(30代後半)であるから、これだけの博識がある人物がを政府の小役人でいることは自分自身納得もいかなかったであろう。一方日本の中では著作も発表しているので結構有名にもなっていたようである。早くして与力をやめて塾を開き、出講したりして名前は売れてきたが、彼はそういうことを目指していたわけではない。太虚の真理の伝道者であったのはないだろうか。しかし、その幕末に近い時期に天保の飢饉が起こりその時の政府の政策が彼の言うところの太虚の真理を生かした政治ではなく、上役におもねり、出世のみを願う役人たちと富にのみ目がくらむような大商人たちと言う小人とによって宇宙の大真理は破壊されていると感じたのは無理もないことだっただろう。そのことによって民衆は道端で死んでおり餓死者まで出ていた、経世済民とは全く別世界がここにはあった。彼の、真理に燃える思想からその怒りが本当に燃え上がったとしても不思議ではない。

実際彼の思想から直接的にこういう革命的な思想や考え方そして実行が生まれたとするにはいろいろ問題があって専門家でも決して一直線につながっているとは言っていない。

しかし農民にも儒教を教えていたので親近感もある、一方で過酷な税を取り立てられている農民の苦しさもよくわかっている、また死者が出るほどの飢饉であり、また他方役人の汚い世界もよく知っている大塩が反乱を起こしたとしても不思議ではない。非常に生真面目な性格で言っていることを実行しないでは気が済まなかったかもしれない。

結局はその思想と反乱の結びつきはなかなか分からないものであるが、一介のインテリがこういう反乱を起こしたことについては、回りのものは気が触れたといっている。ある精神医学の専門家はメランコリー症候群とも言っている。

伏線

伏線としてあるのは、この天保の飢饉、彼の陽明学、さらに本来はそこを脱出しているはずの名声、出世への強い意欲があった。江戸幕府へ出仕したいという強い気持ちもあった。彼の後援者であった、山城守はいったん与力を辞職しないとその話は無理だとすすめたともいわれている。しかしこういうことも結果としてはすべて否定された。そういうことが伏線としてありながら彼の学問との関係から言えば現実の悲惨な状況というものも無視はできないと考えざるを得なかった。特に大坂東町奉行所の跡部というトップに怒りを感じていたということもあり憎しみが一層強くなった可能性はある。

結論から言えば

やむに已まれぬ強い気持ちからこういう反乱を起こしたのだが、はっきり言ってこの反乱というのかこの事件はあまり評判のいいものではなかった。こういう農民一揆風の打ちこわし、火付けなどによって大げさなほどの評価もあるが、現実には何も解決もされなかったわけである。大坂の町が大火に見舞われたということから多くの焼け出された人たちが出たという。精神病説もなんでも精神病にしてしまえば誰でもがこの種のことをできたかと言えばそうでもなかろうと思う。気が狂うほどの怒り、気性の激しさ、厳しい自己規制、広大な哲学などが一体となって事件が起こった。しかし火事は燃え広がったが、市街戦はあっという間に終了した。

残されたものは何か、この彼の陽明学である。あと一歩で近代精神に行く着くところまで来ていながら、できていなかったというのは酷だろうか。それは人間の普遍性への意識が時代の制約のために限定的であった。また社会性という問題も儒学だけではいかんともしがたかった。それでも江戸の後半の時代は経済学者が出てきたころではあったのだが。

抵抗の論理としてもはなはだ弱いものだっといえるかもしれない。

またその精神医学の専門家によれば、この彼の陽明学というものは幻想だったという。しかし幻想と言って思想を片付けるわけにはいかない。長い間中国経由の学問として受け継がれてきたのであり、ある意味の論理。考え方の論理をもっている、さらに言えば抽象化というむつかしい哲学的な世界をも垣間見させている。それによって自己の思考の論理の形成を作っている重要な道具であったはずだ。ただし、彼の著作を読むと、やはり定義のない世界なのである。定義なしであるから分かったと思う人には分かったことになり分かってこない人には言葉だけが宙に浮くということだ。そういう意味では、厳密な学と言えなかったかもしれない。この儒教を江戸時代下手をすれば明治時代の人たちもわからないながら勉強していた。しかし新しい明治維新により欧米から哲学が入り科学、技術が入るとすぐにこの難解な儒教言葉で翻訳ができたのである。この能力はアジア一ではなかったか。大変なものだと思う。

だから大塩問題はまだまだ闇の中にあるといっていいだろう。

「義人がその義によって滅びることがある。悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義にすぎてはならない。、、、あなたは自分を滅ぼしてよかろうか?悪に過ぎてはならない。」伝道の書7、15

わたしの現役時代に大阪のお客さんに大塩さんという方がおられた。遠い親戚のようだ。

また決起した村名に植松村とある。これは因縁か?

残忍な秀吉、義の高山右近、キリシタン受難

「日本史1 豊臣秀吉篇」 ルイスフロイス著、松田毅一、川崎桃太、昭和52年1977年初版発行

この本の原本はマカオで火事のために焼失したようだ。その後写本が見つかった。その写本である「日本史」を訳者である松田毅一氏らによって完訳された。

この本のいきさつにについては前書きに詳しい。フロイスは生きていた時にはこの本は発行されなかった。その一つの要因は長すぎるが故だということらしい。

中公文庫との違い(多少編集も違うようだ)

この中央公論社のハードカバー版は注釈付きである、なお中公文庫のほうは全部確認はしていいないが注釈はないようである。中公文庫とは翻訳内容は同一であるが、文庫のほうは小さくしただけの本ではない。

この日本史1だけでこのブログを書くのも多少の問題も感じるが、この後この全10巻ほどの発行されたものを全部読む時間があるかと心配になり、部分的にでも感想なり紹介なりをしておくことが必要と思えた。

この本の全体的な面白さ

年代は1580年代の約4,5年程度の期間である。

これは言うまでもなく、ポルトガル人であるルイス・フロイスその人が30年も日本にいて其の見たり聞いたりしたことを事件記者のように詳述している、ということがそのまま面白い。要するにタイムスリップして現代人が豊臣の時代に入り込んだような臨場感がある、というものだ。

この本の内容

秀吉がキリシタンと出会い、初期にはキリシタンを歓迎ムードで接したにもかかわらず、ある日突然反キリシタンとなる。このあたりのことは教科書にあるような内容でもあるが、海外のポルトガルの宣教師にとっては覚悟はしていたとはいえ大変な騒動となったことが詳細に描かれている。自分の部下でもあり戦略戦術の達人であり勇敢な武将でもあったキリシタン大名の高山右近などは追放することになった。また海外からの宣教師は全員日本から離れよということになった。単に、反キリシタンということではなく残酷な仕打ちというものがここに描かれているのである。この本の初期には仏教弾圧というほどの根来衆、雑賀衆という仏教徒の大弾圧から始まり、キリシタン大弾圧で終わる。

なんといってもここに描かれている秀吉は非常に残酷、残忍な独裁者であったということだ。またポルトガルが日本を征服しようとしているとか、日本人を奴隷として売買しているということなどから、日本を救った殿という最近の評価もあるようだが、確かにそういう面を見ようとすればできる面もあるが、これを読むとそういうことが事の一部からしか見ていないことによるゆがんだ史観であることが分かる。こいうことに関してはポルトガル宣教師は一つ一つ反論している。これはフロイスの記事でもわかる。

高山右近

この本で特筆すべきなのは、高山右近だろう。彼の発言がこのフロイスの書いた通りとすれば、高山右近という人は相当に近代人に近いことがわかる。信長の葬式を秀吉の前で執り行った時に、仏教式の葬式では高山右近にも居並ぶ武士と同様の仏教式の儀礼を要求されていたが、彼は全く何もしなかった。この時に切腹を命じられてもおかしくはなかった。キリシタンゆえに断るとしている。これで思い出すのは教育勅語に拝礼しなかった内村鑑三の不敬事件である。内村はこれによって一高をやめさせられ奥さんがそのことにより死に、日本全国住む場所もない状態となった。この高山右近の事件を知るにつけ日本には権力に屈しないで自分の思想を守ろうとした先駆者として内村以外にもこの高山右近がいたということになる。秀吉にバッサリと捨てられても、そういう事が今後起こるはずと思っていたといい、いつでも世俗の地位を捨てる覚悟もあるし、自分の命を差し出すこともいとわないときっぱり言い切る。秀吉にキリシタンをやめるようにすればお前を救えるというようなことも言われ、周りからもそのような進言を受けるのではあるが、まったく聞く耳を持たず、自分の思想、自分の宗教に殉ずる覚悟を表明している。彼にとって権力者は全く怖くなかったのかもしれない。

そのあたりの生々しい発言が非常に新鮮である。

キリシタンという宗教との出会い、宗教間の争い、日本の伝統と思想の闘い、西洋の考え方、あるいは異種の考え方の受容と拒否の仕方、そういうことがよくわかってくるように思える。まだまだ多くの思想、宗教が新鮮であった。この後秀吉は朝鮮出兵に行くことになるが、そこまではまだ書いていない。

今後何巻か読み進むことにもなるが、途中での報告をさらにしていくつもりである。考えさせられることが多い、このキリシタン史である。

歴史総合という歴史の見方

岩波新書「世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①」小川幸司編、成田龍一編,

2022年3月18日発行

歴史総合

この本は、今年の高校の歴史の指導要領に近現代史を歴史総合という科目を設置したことにより、今後の歴史教育、歴史の方法論などについて高校の教育現場にある小川幸司をいれて、考えていこうという内容である。歴史総合とは世界史と日本史の統合である。(この歴史総合という話は、神奈川大の的場教授から最近聞いた所である。)

しかし内容は、高校の教育現場という枠を超えて歴史学とは何ぞやというところへ来ている。これを高校の生徒に読ませるというより、教育現場で歴史教育をしている先生方へ向けて書かれたといってもいいだろう。さらに言えば現代の歴史学の急激な変遷に戸惑っている人たちに向けても書かれているといったほうがいいかもしれない。歴史学について現在標準的な考え方をするとすればどういうことになるだろうか、という問題意識にも貫かれているようにも思う。

大塚久雄、丸山眞男

近現代史ということから勢い、大塚と丸山の話が出てくる。要するにこの二人が起点であるということだ。大塚の論理については今まで多くの批判も知りつつも現在では、ということなのか、やはり重要な歴史的視点を保有しているという事から重要視している。丸山についても同様である。

特に大塚久雄の考え方について

彼の経済史の考え方は、主体に貫かれているということだ。この成田龍一氏の説明でようやくというか初めて大塚の理論の核心が分かったような気がした。(この本では彼が引用しているのは「戦後日本の思想」久野収、鶴見俊輔、藤田省三の対談、これも結構古い本である。)それは大塚の本を読んでいると今日から何をしなければならないかというような切迫感にとらわれるのである。そんな学問的な本は他にはあまりないのである。特に彼の「近代化の人間的基礎」や彼のエートス論を読むと猶更の感がある。それは、非常に注意深く考え抜かれていて、彼の学問は、どこまでも、歴史の中に生きて活動している人間の諸個人の主体性を問題としているということだ。ボーっと生きていようが、真剣に社会問題に取り組んでいようが否応なく責任主体であることを認識させられるという方法をとっている。そういうことがはっきりと分かった次第である。

特にエートスというのは、広い意味では思想ではあるが、人間の持っている倫理観である。あるいは共同体的に持っている習慣や考え方の雰囲気である。マルクス主義とか共産主義とかという思想ではない。日常生活の中で考えながらする行動を律しているものである。これを歴史学に持ち込んだということが彼のウェーバーから学んだ深い方法であった。非常に普遍的、かつ非常に個人的なレベルでの問題である。後のほうで、丸山が学問というのは情報ではない、主体性だということを引用している箇所がある。大塚も真理が客観的に存在しているのはなく主体的真理というものがあるということをどこかで語っている。

内容

中国史、イギリス現代史、アメリカ近現代史、アフリカ現代史、中東現代史のそれぞれの専門家が出てきて小川幸司と成田龍一らと対談を進める。問題はこの二人が出してそれをどう思うか、というような内容である。

いろいろ知らないことが多く指摘されていいて、刺激が十分ある。

戦争、ナショナリズム、ホロコースト、人種主義、空爆、ジェンダー、移民、収容所、奴隷制、戦犯問題、国民国家、民主主義、断種法、市民革命、産業革命

こういった諸概念を、それぞれのキーになる本を紹介しながら考えを深めていこうというやり方である。良知力の「向こう岸からの世界史」など面白い本が紹介されている。

グローバル資本主義

この中で再び大塚久雄の問題である。このお二人からははグローバル資本主義的なものの見方は否定されてしまっている、と言っていいだろう。またここに出てくる歴史家たちも同様である。杉山伸也著「グローバル経済史入門」は全く現れてこない。取り扱われていない。なぜか、再びこのグロ―バルヒストリーはウォ―ラーステインとともに棄却されてしまったようだ。しかし私が神奈川大学で3年前に市民講座で学んだ時には大塚はもう古いんです。今はこのグローバル経済史ですよと語っていた名誉教授がいたのに。要するにグローバル経済史の見方は、どこにも起点がない。どうやって資本主義が発生したか分からない、という。また中心と周縁問題のウォ―ラーステインも固定化されてしまって論理の発展がないということのようだ。

結論

この本の面白さはいろいろあると思うが、大塚、丸山について高い評価をしている前半部分は非常に面白いし有意義だろう。納得される方も多いのではと思う。

ぜひこの本を皆さんも読んでいただきたいのであるが、このお二人の編集者の意図はやはり大塚、丸山の主体的に歴史を知るということが絶対的に必要だといっているように思える。そして明日からの自分の行動が変わっていく、それが学問である、とも言っているようだ。

ついでに

歴史総合という科目はどんなことになっていくのかは興味があるが、昔から古代史もアジア史の中でとらえようという考え方もあったが、良い業績はなかった。また前回ルイス・フロイスの「日本史」を取り上げたがまさにこれも歴史総合的な世界だ。

「灰とダイヤモンド」から見る東欧の苦難

「灰とダイヤモンド」上・下、アンジェイエフスキ作、川上洸訳、原作1948年、岩波文庫1998年

この本は、アンジェイ・ワイダ監督の同名の映画(モノクロ)の原作である。かつて50年くらい前にこの映画を見たことがあり非常に強い印象があった。最後の主人公ががれきの山というか広いゴミ捨て場の原っぱのようなところで、よたよたしながら死んでいく衝撃的な幕切れは私だけでなく多くの人に心の奥底に強い衝撃が残ったのではないか。「灰とダイヤモンド」という表題の言葉を象徴するような最後である。

しかし、ここで言っておかねばならない事は、原作と映画は相当に異なるということだ。大枠は同じである。しかし圧倒的に省略が多く、同じ「灰とダイヤモンド」とは言えないくらいに違いが大きい。ただし、この映画の台本はワイダ監督とこの作家の共同執筆ということなので互いに了解はされていたのだろう。

この本をなぜ読むか

これは先ごろ始まったウクライナ危機の中でロシアの問題、さらに言えば東欧という世界をあまりに知らない、ということからこの分野で小説というものを一度読んでみたいと思っていた。また私の本棚に社会主義文学というのがあってそこにワイダ監督の台本というのか脚本があったがこれはストーリーを追いかけるのに非常にむつかしいと感じて岩波文庫のほうへたどり着いた。しかし今回の戦争でもポーランドの事はあまり言及されていないがかつては同じようなことが起こっていた。

背景

これは第二次世界大戦の最後の日のことだ。1945年5月5日からの4日間という非常に短い間の事件とその周辺の人間模様を取り扱ったものだ。

また細かい説明は省くが、独ソ戦でソビエトが勝利し、ドイツが無条件降伏した。(1945年5月8日)この間の問題を分かりやすく言えば、国家再興問題として、ポーランド独立民族派、ソビエト派と別れる。この経緯もややこしいが、単純化して説明する。このソビエト派は社会主義の理想が正しいとしてソビエトに従属してポーランドを復活しようということである。一方で長い間ロシアの圧政の中にいたポーランド人からすればソビエト政府に従属できないということで、地下組織を作ってテロリスト集団となっていった。このテロリスト集団の一人が主人公である。若い青年、22歳とある。長い間ドイツ、オーストリア、ロシアに蹂躙された歴史、そしてワルシャワ蜂起という終戦間際に起こったポーランド人のドイツに対する一斉蜂起があった。この時にはソビエトの呼びかけもあって起こったが、ソビエトは応援せず見殺しにした。ドイツに攻め込まれて二十万人が死んだとされる。第2次世界対戦全体でで死んだポーランド人は600万人と言われている。ユダヤ人は90パーセント以上なくなった。この時期にカチンの森事件などあり、今から思えばソビエトが信用できるはずもなかったのである。またポーランド人の中にはナチスに協力して同僚であるポーランド人を密告したり、死刑にさせたりして生き延びた人もたくさんいた。それはユダヤ人も同様だった。そういう人たちもまたこの小説では重要な役目をおうことになる。

このポーランドの置かれた長い苦しみを圧縮したのがこの数日間の出来事である。

物語の内容

この戦争によって傷を受けた人たちの物語である。その傷を持った人たちが戦争終結の放送を聞いて何を感じるのか、先に言ったように、独立民族派とソビエト派とに分かれてしまって、終戦記念の良き日を祝う時に、テロリストはそのソビエト派の一人を暗殺する。その暗殺は一度失敗している。この主人公はこういうテロをもうやめたいと仲間に漏らす。しかしそれは上司の命令である、ということから計画通りしなければならないという使命感に縛られる。なぜ彼がこういう仕事をやめたいと思ったか。彼は初めて恋愛をしたのである。その地方都市の大きなホテルにテロの目的のために泊まった。そのホテルのバーで出会った美人でカウンターで給仕をしていた女性を初めて愛したのである。普通の生活がしたいと、「理想」はどうでもいいから普通の生活をしたいと切に願うことになった。しかしやめられず、結局はテロを遂行した。そのあと、町をふらついてワルシャワ近郊の街へ逃れようとしたときに民警に呼び止められる、その時に逃げ出す、そうして民警に背中を打たれてその灰というかごみ広場というか、広い、だだったびろいごみの原っぱに斃れる。映画では死んだことになっているが打たれてすぐ死んではいなくて民警が生きているな、と言っているところで終わる。この幕切れは多少ニュアンスは違うがほぼ映画と同様である。衝撃的だ。ドイツがソビエトに敗れて戦争が終結したその日に死ぬのである。多くの人は終戦を祝っていた。街のお偉方もさんざん酔っている。ホテルもポーランド国旗を掲げたその日にである。この対照性がこの映画が成功したゆえんだ。

またこの事件とは複雑に絡み合いながら多くのポーランド人がホテルで終戦と祝勝会のパーティをしているのである。そのパーティでのいろんな会話が非常に面白い。戦争中何をしていたとかどういう立場だったとか、ナチに協力したとか、そういうことは話したくないとか、出世したいとか。この辺は作者の非常にうまい書き方と思う。エイゼンシュタインのモンタージュ理論を小説化したような書き方だ。フラッシュバックしたり細かにぶち切って話を進める。今会話していたかと思うと違う場面に暗転し話が変わる、というような手法である。

どう感じるのか

この物語は映画とは相当違っているが構想はほぼ同様と思っていいだろう。

ポーランドという複雑に支配されてきた国、国民の気持ちを表現して余りあるだろう。あまりに悲惨、あまりに悲劇的、あまりに苦しい世界だ。これはウクライナにも通じるのではないか。これらの国のことを今更ながらあまり知らない、ということを知るのであるが、もっと、もっと勉強もしていく必要もある。多くの東欧という苦しみぬいた国々、蹂躙された国々のことを思わざるを得ない。

ついでに

この映画の主役の人はアメリカ映画のエデンの東の主役だったジェームズ・ディーンに似ていると思うのは私だけだろうか。また雰囲気がこのジェームズ・ディーン風である。さすがのワイダ監督だと思う。自分の人生や命をなんとも思わないこの無鉄砲な男の役は適役だった(ズビグニエフ・チブルスキー)。愛する女性はエヴァ・グジジェンスカ。美人である。

最後に

この「灰とダイヤモンド」というのは、最初の扉にもあり最後のほうにも出てくる墓場をうろつくシーンの中でこの詩が出てくる。ノルヴィト作「舞台裏」から「永遠の勝利のあかつきに、灰の底深く、燦然たるダイヤモンドの残らんことを」という詩からとられている。ポーランド独立の祈りを込めて表題としたのではないか。

未完了の会津キリシタン

福米沢悟著「惨夢、静かに散ったキリシタン大名、蒲生氏郷とその家臣たち」日本図書刊行会、発売近代文芸社、1997年発行

概要

この本は、キリシタン大名であった蒲生氏郷を中心として会津藩主としての彼の生涯と会津のキリシタンの動向および彼亡き後の会津の歴史である。織田信長から徳川幕府までの時代を扱っている。

なぜこの本を読むのか

3つの理由

1,ルイスフロイスの日本史を読んでからこのフロイスの時代に多くのキリシタン大名が生まれた。この上下を問わずかなりの数のキリシタン現象というものが見られた時代への関心

2,日本の文化と西洋文化との衝突の問題、明治になっては本格的に問題にされるが。

3,会津というのは両親の故郷であり、小さい頃は親戚の家を何回も行ったことのある親しい場所である。このよく知ったと思えるところが意外に知らなかったということをいまさらながら感じることがあるのか。

内容

蒲生氏郷は伊勢松坂の殿さまで早くからキリシタンになった。高山右近とも親しい。それも非常に熱心な。かつ織田信長の筆頭の家来、またそれゆえに秀吉の重要な部下となった。この秀吉の時代に伊達政宗などの東北の雄にある程度にらみを利かせるために、会津60万石という地へ増石し移封させられた。

この地にもともといた大名はみな追い出されて氏郷が入境した。

この地にて、わかまつという名前を新しくつけた。そこでかねてから彼のキリシタンとしての思想からキリシタン布教という大命題のためにこの会津領内で一層の宣教活動をしようということにしていた。ところがある日秀吉の茶会に呼ばれて毒を盛られてあっけなく死んでしまう。

その後、長男も幼くして殿に就いたが若くして死にそのあとに次男が就任。

その後徳川幕府の時代に入り、目的は同様で東北へのにらみのために蒲生家をそのままおいた。氏郷の偉大さを慕った多くの武士がいたが、若い殿はその氏郷への敬慕を嫌った。

それゆえ、父がキリシタンであったので、キリシタン取り締まりには緩くほとんど成し遂げてはいなかったが、その家来のうち元はキリシタンだったものが徳川の時代になりキリシタン禁止令まで出ているのにわが藩は何もしないでいると改易になると危機感をあおるものが現れる。お家大事なかのわが身の出世大事なのか分からないがその時だけは大変な弾圧をしたようである。その後浦上崩れというので600人ほどが九州で捕縛されそのほとんどが処刑された。同時に会津でも200人ほどのキリシタンが発見された。しかし浦上の処刑の評判の悪さから会津では処刑されずその後釈放されたという。こういう事を見ると藩によってはキリシタンへの扱いが大きく異なっていたのかもしれない。その藩の殿の考え方次第であったか。

こういうことが事細かく語られている。

その後

結局キリシタンは会津では相当に生き残ったようだ。

現在は会津観光協会のキリシタン遺跡を巡る旅というパンフレットがあり関係先を巡ることができるそうだ。

まとめると

上級武士の教養ある人たちはほとんどがキリシタンに一度はなったようだ。それだけ高文化の宗教とそれをある程度理解する知識層とまた庶民がいたということだろう。またキリシタンについては多くの未だ日本では評価されていない事象が多く残念ではあるが、イエズス会の歴史、(イエズス会世界宣教の旅、フィリップ・レクリヴァン著鈴木宣明監修)など読むと世界史への考え方がまたがらりと変わることになる。さらに「キリシタン千利休」(山田無庵著、河出書房新社、1995)これも千利休がキリシタンであったことを証明している。また葬られた大徳寺(京都)は現在かなり大きな寺として参観可能としているが、ここにも多くのキリシタンの墓があるという。この寺は一応禅寺だという。また「沖浦和光著作集第4巻遊芸・漂白に生きる人々。(現代書館、2016)によればキリシタンの活動は初期のキリシタンは漂泊者、芸能民などの最下層であったようだ。また日本では仏教がやめていたライ病院の設立などがあり、彼らのどこまでも他の人生では考えれらないほどの過酷な生を生き抜いて宣教活動をしてきた事がわかる。かつインド・ゴアのザビエルの活動の地域はほとんどが不可触選民、カースト最下層だったという。こうした彼らの活動を総括すると我々の人生の生きる目的というものがもう一度見直されるべきであるというかなり強い思想的インパクトが感じられる。

さらに最近ウクライナ、ロシアの戦争で価値観を共有する国々、という言葉も出てくる。このキリシタンは価値観を本当に我々と共有するようなレベルだろうか、まったく逆の自分の生を捨てた人々と言えるのではないか。またキリシタン大名はキリストのために死ぬのであれば喜んで死ぬという、言葉を多くの武人が残している。またあの有名な高山右近、黒田官兵衛も同様であり、蒲生氏郷やその配下の侍も同様である。

またカソリックは大航海時代のなかでの植民地化の先兵となったようにも言われている。これも実際は研究が必要だ。というのはイエズス会、フランシスコ会などの思想的対立、またそういう先兵的な活動の事実もあったが、そこだけが取り上げられているかのようで残念である。内部的には多くの思想の対立、批判があった。これらの歴史的過去は終わっていない。これこそ未完了の過去である。

転向作家、島木健作の「礎」

島木健作「礎(いしずえ)」1944年11月新潮社から刊行

(「島木健作全集第10巻所収、国書刊行会のものを読む。)

島木健作

ウイキペディアを参考にすると、1903年9月生まれ1945年8月17日没)1925年東北帝大法学部入学も中退、日本農民組合香川県連合会木田郡支部有給書記として農民運動に加わる。1927年ころ日本共産党に入党したようだ。1928年の3.15事件で検挙、1929年転向声明、1930年3月有罪判決、1932年3月肺結核により仮釈放。1934年処女作発表(この時31歳)41歳で亡くなる。

彼の本としては「生活の探求」が非常に有名である。この本は非常に多くの当時の青年たちに読まれたという。昭和13年(1939、40年頃)前後に20代であった人たちだろう。この中に私の父もいたのだろう。

転向文学

転向;日本共産党の指導者であった佐野学、鍋山貞親の1933年「獄中からの転向声明」の言葉に由来。(哲学辞典、平凡社)これは当時の弾圧下にあって、非合法な体制変革の思想を捨てて社会民主的な合法活動により日本社会をかえていこうという考え方をいい、現共産党は変節と言ってる。(社会科学総合辞典、新日本出版社)

転向文学とは、上記のような共産党から転向をした左翼の作家が書いたものを転向文学と言う。しかしながらこれだけでは転向文学としての何らかの積極的な価値も意義も見出せない。戦後は転向したことによる内面の変化を主体的に描くことによって文学的な表現を獲得したものに対して良い意味でも使われる。

「礎」という小説

これは私の父が生きているころのことで、まだ私が高校生か大学に入ったあたりのころに、この本はいいぞと言って勧めてくれた本である。しかしながら最初のほうを読んだ切り全部は読んでいなかった。持っていた本は戦後すぐ出たもののようで紙質は非常に粗末なもので紐閉じもほどけておりもうすぐばらけてしまうのではと心配されるような本であった。友人にも紹介したりしたが今の今まで全部読んだことがなかった。また最近その本もどこかに紛失している。さらに文学全集の島木健作のなかには大体がこの本は含まれていない。たぶん単行本では入手不可能だろう。また多くの文学評論家はこの本を彼の代表作とは認めていない。さらに「百代の過客ー日記に見る日本人」で有名なドナルド・キーンも文学史の中でこの作家の「礎」を評価し扱っているものはない。そういうことから島木健作という名を知っているだけでも今や文学通だが、彼の名を知っているわずかな人のなかでもこの「礎」を知っている人はほとんどいない。彼も彼のこの作品も歴史の中で失われているといえる。ということで父からの宿題のようなこの本について50年を経てやっと完読したのでこのブログに載せていきたい。

内容

新保祐司「島木健作ー義に飢え渇くもの」(リブロポート)にもあるが、最初のほうに北海道の札幌で若いころの内村鑑三の講演会を聞いている場面がある。この時の彼との出会いについてものすごいインパクトがあったのだろう。彼の印象、風貌を事細かくまさに彫刻家のごとく刻み描いている。この表現は一言で言えば畏怖である。出会った瞬間恐れおののいて打たれたのである。これは小説の中の表現というより彼の現実の印象だろう。これは聖書のイザヤ書6章にあるイザヤの神との出会いの場面でイザヤが「災いなるかな私は滅びるばかりだ」と絶叫する時の精神状況を想定しているかのようである。これは自分に向かって突然来る恐るべきもので対象化できない、距離も置けない、自分の精神にグサッと侵入してくる。そのときに感じるものだ。彼の筆致が緊張感に包まれている。

概略は

北海道の札幌で銀行の小間使いをしなければ食っていけない貧しい少年たちの生活と出会いから始まって、東京の書生稼業のなかでさらに世間を学び知的に飢えながら、自分の人生をどうしていこうかと悩む青年の物語である。都会では後ろ盾があったり学歴があって一応成功したような人たちについてこの青年たちは厳しい目で見る。理想へ向かってもがく。一歩間違えばただの人以下である。僅かな人のツテを頼って仕事を探し夜学に通う。右も左もわからないで東京に来て学歴も金もない人間がどのように成長して行くか。またその10年後には満州で活躍した日本人たちの農業的生活をつぶさに描く。多分ここで表現されているのは、人生如何に生くべきか、という求道的精神が最後までどうなっていくのかという内容だろう。特に島木からすれば農民運動に若いころ接しかつ転向したことから、いろんな大理論、大教義、大哲学というより自ら実際の経験を積み、活動した中で得られる手のひらにつかめる具体的思想が必要だった。人間の傲慢さが自然の過酷さのなかで打ち叩かれ、自然との取っ組み合いの闘いとその日々の苦しい中にこそ働く喜びを与えられ、見いだせる農業というものは彼の理想の仕事だった。これを発表した翌年には彼は亡くなっている。だから彼は病気を押して最後に書いた結論としての小説だったはずだ。代表作にしたいくらいだ。今読んでもそういう彼の強い気持ちが伝わってくる。現代のバフェット氏やイーロンマスクなどというような異常な金持ちがもてはやされている。たぶん当時もそうだった。この作品はそういう華やかな栄達とは真逆の人生の存在感を表現できている。そのことが驚きであり新鮮だ。

この小説の余韻

地味な小説であるが、青春の物語としては成功しているとは思う。貧乏学生のテーマは、私も幕張の教会に通っていたころ、幕張で下宿している浪人生などが教会に来ていた。私自身は小学生か中学くらいだから可愛がってもらってよくその下宿に遊びに行ったことがある。3畳半くらいの狭い部屋に平机と湯を沸かす電気ポットがあって、子供心に自分の部屋がある人はいいななどと感じていたことを思い出す。そういう人も大学を卒業して就職などすると私の父にあいさつなどによくくるのであった。またその会社がつぶれたとか聞くと子供心にも心配もした。戦後の経済成長前はやはり多くの人は生活は苦しかった、就職もむつかしかった。まして戦前の昭和初期はほとんどが不況だった。こういう時に学歴もなく中卒資格試験くらいではどうにもならなかったようである。逆にそういう私の子供時代の生活の苦しい時代の人たちのことを、自分も含めて思い出すのである

生き生きとしていた中世の多様な民衆

網野善彦「増補無縁・公界・楽ー日本中世の自由と平和」平凡社、1996年発行

この本はなんと言ったらよいだろうか。

いい本というのは世の中にたくさんあると思うが、これも非常によい本ではないか。

これは生まれたばかりのほっかほっかの考え方をたくさん提示して、なお、まだ、いろんな点で実証が不足していると自分でも言っているが、すでに固まっている正統派の歴史学ではないだろう、通説を否定する学問である。またすべてが新しい考えである。また論争的と言っていいかもしれない。歴史の中にエートスを持ち込んだウェーバーを想起させる。日本の中世史のなかで一切触れられてこなかった、漁業民、日本全国を漂泊する所の、ここで注目される職能民、芸能民、非人、などの存在、または自治をしている町々、津や浦々の発見である。

中世史と言えば荘園史というくらい、荘園という土地制度史的世界が主流なのである。そこで登場するのは、天皇、武士、農民だけである。また単なる発見でもない。そこにある共通の思考を見つけたのである。それは可能性としての発見である。そういう場面、状況が生々と伝わってくるような論稿である。

またこの本は最後まで読まないと味わえないものがある。あとがきでもあり、増補の文章でもあり、増補の補注でもある。安良城盛昭との論争など最後の最後に方に出てくる。彼の本音のような考え方、自分の理論のかけたところへの不安、心配といったもの、さらに言えばそういうものを乗り越える考え方も出ている。

彼の略歴

網野善彦、1928年1月生まれ、2004年2月76歳で没、1950年東大を出てから渋沢敬三主宰の財団法人日本常民文化研究所勤務、1954年水産庁からの予算打ち切り後、永原慶二の紹介で都立北園高校の非常勤講師、1967年名古屋大学文学部助教授、1979年神川大学短期大学教授1998年定年退職、2000年宮田登の葬儀委員長を務めるも自信肺がんとなり闘病生活に入る。学者としてそう恵まれた地位にいたとは言えぬ略歴である。

残念なこと

今頃全国の津々浦々に自治都市があり歴史があり、それぞれの長い歴史があり特徴があるという彼の指摘について、今更この年になっては、そういうところに行ってみたい気もするが、なかなか行けないということがまず念頭に出てきてしまう。非常に残念なことだ。特に琵琶湖の長浜にはよくいったのに周辺には全くいってない。ここにはキャノンがあり菱樹化工という三菱樹脂の会社もあり、何十回となく往訪したのだがただ飲んで帰ってきただけというのも悲しいかな残念としかいいようがない。(余談であるが、ニューヨークに行ってベスページカントリークラブに行かなかったくらいの残念さである。またはそれ以上だ。)

内容

この本の一番の発見は、先に書いたように、非農業民の活躍である。彼らが何をしたか、どういう生活をしたか、ということだ。最初は駆け込み寺の問題から入る。この駆け込み寺というのは、キリシタン時代までもあった。駆け込み寺へ逃げたキリシタンはたくさんいたようだ。ここに入ると法律や支配とその統治権、また警察権が関与できないことになる。これを無縁寺という。この無縁寺というのは日本全国たくさんあった。ここから公界、楽という多様な概念の言葉によって広がりを持たされるのは、彼らの自由と平和と民主主義である。さらに言えば自主であり独立の思想である。つまり、彼らが意識していたかいないかにかかわらず、自由があり平和があり一人一人の権利が確保されているのである。特に公界と言われるのは道路、道端で市が開かれるがこれが公界なのである。ここでは争いごとや当時の支配者からは隔てられており、自治的場となっている。こういうことが一々の市、つまり十日市、四日市というような市が立てられるところにはあったそうだ。そこで活躍するのは非農業民、芸能民であった。これについては細かい説明がある。またそこには、支配者からは無縁である人たちの世界でもあった。この人たちのことは細かい説明を除いていえば無所有であることを大切にしている人たちでもあったということだ。この無所有性は歴史学者からの批判も多いが面白い観点であり我々は納得するものである。こういう観点を推し進めていくと日本にもアジールという世界,聖域となりうる場所があり、そこが無所有の無縁の人たちにとっては生きる場所でもあった。このことは「中世を旅する人々」阿部勤也の本にも出てきており、この社会史的学説と相通じる。彼のその略歴にあるように民俗学と親縁的であり柳田国男やその他の民俗学者たちさらにこの社会史的世界とのつながりを感じさせる。橋や港、さらに言えば仏像の建立などこういう無縁の人々の考え方と活動によっている。虚無僧、白拍子、傀儡師、山伏の存在など面白い。

農民一揆、非人の一揆、漁民の一揆などの内部の掟などのにその民主的手続きなるものもあるといわれている。また古代の農民が奴隷であったというのは全く違うとも言っている。彼らにはギリシャ時代の奴隷とかロシアの農奴とは全く違ってある一定の自由がある。マルクス主義では総体的奴隷制と言われているものに対して反論している。

結論的に言えば

日本の歴史の中に固定化され全く自主、独立の面影もないとして暗く絶望的でしかなかったと考えていた古代から中世にかけての民衆像の中に、新しい人間像が発見されている。日本史の中に希望を見出す新しい人間像だ。可能性としての人間像である。それが彼の歴史学の他の人とは全く異なる史観ともいえるだろう。

参考

網野善彦の本の中ではこれがベストセラーだった。志半ばで亡くなったか。

岩波書店から、網野善彦対談集(全5巻)というが出ており、日本中世史の大御所がたくさん対談している。永原慶二や黒田俊雄、旗田巍、竹内理三、尾藤正英、石井進などをはじめとしてこれも相当に魅力的な対談である。

最後にもう一つ。

あとがきがこの本には二つあって、本人のものと解説的あとがきがあり解説は笠松氏のものである。この解説も心のこもったものだ。本人のあとがきに、ドイツ中世文化史の北村忠夫氏から教えを乞うていた時の話が出てくる。これは社会史家と日本の歴史家との非常に稀有な出会いと感激に満ちたものだったようだ。

「私が『公界』の問題を持ち出すと北村氏は『フライ』、『フリーデ』に言及されヘンスラーの著書を貸してくださった。私の語学力の不足と怠慢からこれを本書に十分生かしえなかったことは申し訳ない次第で、お詫びしなければならないが、『一揆』に話が及んだ時、『神の平和だ!』といって手を打った、北村氏のお答えは忘れられない思い出である。」とある。ここだけ読んでもわかりずらいかもしれないが、ヨーロッパの歴史を貫く思想とほとんど同じものが日本で発見されたということに二人とも感動したということのようだ。(オルトヴィン・ヘンスラー「アジール法の諸形態」1954年、のことで日本では翻訳・紹介されていない。アジールについてはほとんど本格的研究がないということについても網野は憤慨している。本書p236)

差別の根源を見る

沖浦和光「天皇の国・賤民の国  両極のタブー」河出文庫、2007年(弘文堂90年発行のものを一部割愛して文庫本とした。)

沖浦和光という人

岩波新書「瀬戸内の民俗史―海民史の真相」筑摩書房選書「宣教師ザビエルと被差別民」などは私の読んだ本である。その他著書多数だ。

ウイキペディアによれば、1927年生まれ2015年没、東大で共産党活動、東大共産党極左派で安東仁兵衛(丸山眞男の弟子と称している。)とともに活動、東京大学英文科卒業後大田区立大森第八中で英語を教える。その後晩年は桃山学院大学の学長になっている。専門は被差別民・漂泊民の研究。私の読んだ限りでは、被差別民の研究から差別の原因となったものは何か、という根本的な命題に歴史的にアプローチしたといってよいだろう。

この本の対象時期

この本は、天皇制と差別の問題を扱った小論文を集めたものだ。論文としては短いものだがやはり、一本の太い線で筋が通っており読むものを納得させずにはおかない。前回扱った網野善彦の時代は中世だがこれは古代、中世、近世つまり江戸時代、明治維新以降にも対象は拡大している。

この本の内容の概略

日本という国は、東北アジアの騎馬民族が朝鮮経由、日本列島に入り征服してヤマトに征服王朝を作った。(江上波夫の騎馬民族征服王朝説、簡単に参考として著者の言うところの騎馬民族説を別途後半に掲げてある。)先住民族であった隼人、蝦夷などを圧倒する軍事権力で殲滅、隷従させた。そして反抗する者たちを差別する階層を作った。その天孫降臨の万世一系、血統の連続という天皇制が貴・賤の差別構造を生み出した。中国の王は移譲されるものという考え方で血統は関係ない、またエジプトのような農耕文明の国は血統の純粋性とか天孫という思想はない、という。日本独特というか東北アジアから来た騎馬民族に特有な思想だった。

貴・賤から聖・穢の差別への推移

 ところが日本では中世あたりから天皇の軍事権力の後退から来る支配権力の衰退により祭祀的支配者として重心を移動してきた。それにより、貴・賤の差別から聖・穢差別へと移行した。その背景には天台宗、真言宗などが国家護持宗教として、中国経由密教を輸入したことにより思想的に固められてきたという事実がある。空海が唐に留学し天才と言われて取得してきたものが密教だった。しかし彼の書いたものの中に、徹底した差別の考え方を述べた箇所があるとして実例を挙げている。(後述)

インドの仏教の密教的要素がどのようにして成立し、どこに問題があるのか

BC15世紀ころ騎馬民族であるコーカサス系アーリア人がインド先住民族のドラヴィダ族を征服してヴェーダ聖典によるカースト的な差別思想を生み出した。支配者が征服民を差別する思想、カースト制の初期型を作った。BC5世紀バラモン教の宇宙論の集大成「ウパニシャッド」が成立、簡単に言えば汎神論的宗教、祭式主義的である。また輪廻と業の宇宙論的宿命論を説いた。この輪廻からの解脱のためにはヨーガによって、精神統一と迷妄からの脱却が必要となり、これがこのバラモン教の根幹となった。また人間には4階層の種類があると説く。この階層がカーストである。これがその後の仏教、ヒンズー教に大きな影響を与えた。そこから仏教が生まれた。最初から仏教はこのバラモンとは対立する思想を掲げてきた。反儀式、反差別、反有神論、輪廻に対する反宿命論、反アニミズム(呪術)。釈迦の死後、2世紀、3世紀は仏教としては実りの多い時期だった。ところが4世紀になるとグプタ朝が起こり、たちまち版図を拡大して大帝国となった。この勢力の支配のかなめはヒンズー教とカースト制であった。ヒンズー教の優勢化によって仏教は劣勢に置かれた。この時、徹底抵抗か妥協してヒンズー教の下での仏教として延命するかという二者択一の状況を迫られた。この時代から仏教はヒンズーの影響のもと釈迦の独自の思想を喪失していく過程であったという。

空海の密教の問題

インドでは仏教がヒンズー教と混交してきたことにより、ヒンズー教のもつカースト制的思想が中国経由、日本の仏教に持ち込まれた。このことにより聖・穢の差別の方向へ向かっていった。これについては、空海の思想にそういうことが垣間見られる。その色々な言葉が引用されているが特に不可触選民について無間地獄に落ちるものとしている箇所がある。(「遍照発揮性霊集」他)著者はこのことを一番言いたかったようだ。この密教が支配者型宗教であり、それ故に国家護持であり、それゆえに被支配層に対する差別思想の温床となった。この密教のカースト的思想の影響により、貴・賤から聖・穢れへの差別というものが助長された。

参考までに、騎馬民族と天皇制と原日本人の文明の破壊

これは騎馬民族征服王朝説の江上波夫の肝心なところとして彼が引用した部分であるが大体一読すれば首肯できるものだ。

「(扶余系騎馬民族の辰王家が二つの王国に分かれて、)一方はもとの馬韓が、百済の扶余王家となったのに対して、他方は加羅(任那)に移って日本列島の征服に乗り出し・・・・ヤマトに入ってヤマト王朝を創始、その後も倭国と百済が密接な関係を持っており、特に百済が倭国を頼りにしており、倭国が百済を終始助ける立場にあった事も同じ王朝が分岐したものとして初めて理解できることである。」p47

また祟仁天応が朝鮮半島の任那から日本を侵略した。原日本人(隼人やアイヌ人)を征服して圧倒的な軍事力により大和朝廷を作り上げ、天武天皇が今の天皇制度を作り上げたと論じている。

最近は江上波夫の騎馬民族説の動向がどうなっているかは、私は知らないし、あまり語られていないようにも見える。それは天皇制の変化にあるのかもしれない。ミッチーから始まり現代天皇制はある意味支配という観念からは隔絶されており、超有名人もしくは芸能人という所にとどまっているように見える。そういう意味で天皇制の出自についての戦争直後のような熱い研究熱や議論が交わされなくなったということだろうか。

結論的には

日本の差別意識の淵源には天皇制と国家護持宗教としての仏教の密教化がある。被差別部落の存在などの穢れの思想による差別はここからきているとみて間違いないだろう。ここまではっきりとして差別意識の淵源について語った人はまずいないだろう。インドの仏教のヒンズー教との混交について詳しく書かれている。分からないことだらけだがぜひ一読を願う。また被差別部落から日本の芸能が発生していることも論じられている。このあたりも、今は触れないが非常に興味深い。

こうした認識は、彼がインド、インドネシア、マレーシアなどの東南アジアから南アジアへ何度も足を運んで民族文化を理解したからこそ説得力を持つものである。さらに彼がフィールドワークとして古老などに聞きとり記録した被差別部落の情報ももはや聞くことすらできなことを考えると非常に価値あるのではないか。非常に薄い本ながら爆弾を秘めているような論稿である。

戦争の最中の喜劇役者

古川ロッパ昭和日記、戦中篇昭和16年から昭和20年、滝大作監修、晶文社、1987年

なぜこの本を読むか。

浅草芸能史というものを知りたく思った。これは中世史の被差別賤民の話を聞いてから特にそう思うようになった。特に自分の知っているだいぶ昔の喜劇役者、大宮デンスケの自伝を読んでからなおさらに浅草の芸能史を知りたく思ったが、その中の一つが名前は知っているこの古川ロッパだ。偶然図書館の検索の中で見つけたもので最初はもっと小型のものを想定したが非常に大部のものだった。

この日記にもいろいろ名前は出てくる。増田喜頓、徳川無声、エノケン、その他。しかし現在は東西を問わず、喜劇役者というのは激減しているのではないか。特に関東は絶滅危惧的な感じもしないではない。古川ロッパという人は菊田一夫のシナリオをかなり多く演技したようだ。しかし晩年は分裂。ロッパはいずれにしても浅草出身ではなく、日劇、東宝といった所の出身で、早稲田大学英文科中退という履歴である。また両親は子爵で古川家に養子に出された。長男以外は養子に出すという家訓だったようだ。金銭的には恵まれた育ち方をしたか。被差別民との関係はほとんどなし。大宮デンスケも同様だが、出身は結構エリート家系だ。麹町出身で空襲爆弾が激しくなってきたころには引っ越すが、生まれも育ちも麹町でだいぶ長くそこにいたようだ。

古川ロッパの日記というのは、出版されたもので4冊、写真にあるような辞書のような分厚さである。この本は昭和九年からほぼ死ぬまでの間の日記である。たぶん計算上は30代になってから毎日書いた日記の全集というべきものだろう。驚くべきことだ。こんなに書いた人はいるのだろうか。それ以前にも日記は書いていたようだが、どこかで破棄したようだ。また昭和20年7月27日で戦中日記は終了し、現在のところ7月29日から9月3日分が紛失している。よって戦後編は9月4日からスタートしている。昭和35年12月24日で終わっている。死の20日ほど前である。昭和36年1月16日没、57歳

あまりに長いので昭和20年の一年分を読む。1年分といっても7月の27日に終了なので、半年プラスといったところか。しかし終戦の大事なところが抜けていて非常に残念だ。

昭和20年は彼の年齢は41歳か?明治36年生まれだという。昭和36年没、57歳で亡くなった。早死にといってもいいかもしれない。

彼の日記の書き方

このロッパは毎日欠かさず日記を書いていた。日記を書くことを非常な楽しみとしていた。いつ書いていたのか。たぶんこの日記を読んでいる限り、夜ではなく、翌日の朝に寝床で書いているようである。だから前日のことを毎日ことごとく思い出して書いている。朝起きた時の調子から寝るまでの前日の事を、それを思い出すことが楽しいのか、思い出していることを書いていくことが楽しいのかは定かではないが、書く事の楽しみを覚えた人の書き方だとはいえよう。彼は文人でもあり本も出している。戦時中も夏目漱石、やその他の世界文学全集にあるような本を読んでいる。結構なインテリでもある。早稲田大学英文科(中退)だから外国文学には詳しかったのだろう。

空襲警報と防空壕の生活

この昭和20年の日記というものは、東京在住の人たちの空襲警報と防空壕の生活といってもいいのではないか。その庶民の生活にプラス芸能人(本人は芸人と言っている。芸能人というのは官製和語である。当局からの通達によって言われ始めた。芸人より芸能人のほうが文化に貢献しているという感じが出る、と言われて。)芸能人らしい生活を織り込んでいる。

日記の内容

大体決まっているのは、晴れか雨か、がまずきて、その後朝食は何を食ったかという。昼は大体が弁当、そして夕食は何を食べて良かった悪かったという内容。彼は卵が好きだったようだ。さらに卵と牛肉などが好きなようで体に非常に悪い、糖尿になりそうなものを好んで食べていた。その間に今日の芝居の入りはどうか、満員かそうでないか、また今日の客は良かった悪かったなどの内容である。また夜には大体は麻雀をやっていた。空襲警報が鳴るとやめて防空壕に入り、解除されると始まるという具合である。結構な健啖家で食事の内容については事細かに書いている。やはりここで驚くべきことは戦争中、東京では空襲警報が鳴り続けているにもかかわらず、6月くらいまでは何とか芝居をやり大入り満員であったようだ。またその後彼らは麻雀などして一夜を過ごしていわゆる徹マンである。これが戦争下にある庶民の生活とも思えない不思議なことだ。空襲警報もなれるとほとんど怖くならなくなるという。確かに最初は,敵機は一機、二機程度で飛んできて少し爆弾を落として去っていく。だから2時間ほどするとすぐに解除される。しかし5月くらいなると何百機と飛来して爆弾投下である。神田周辺、四谷から麻布あたりは焼け野原になる。

東京大空襲

東京空襲が一層激しくなる6月から7月初めにかけては彼は地方の軍隊、学校、工場へ行き慰問劇団でドサ回りをしていた。家族は福井へ疎開。しかし東北の仙台、青森、秋田、新潟、五泉などもいっている。さらに福井当たりから帰ってきて東京を見るとひどいのでびっくりする。

検閲

またこの間当局はすべて検閲となった。検閲官の愚かな発言が気に障るとして怒っている。ところが戦局が悪くなると次第に喜劇に関しては何も言わなくなったそうだ。

日記の問題

他人の日記というのは分かりにくいものだということがよくわかる。人名一つでも知っているものの名前であればいいがほとんどはわからない。芸能通ならということになるだろう。また同じことを何回も書いている。朝飯を何が出たとかいうのは関心のない人には読むのも苦痛だろう。そういう意味では日記も書くなら簡潔にしてと言いたいところだ。しかし彼は日記を書くのがたまらなく好きだった。下手な小説より面白いだろう、という。また書いているときの快適さ、その書いた日記は大切に疎開などして大事に保管された。そのため難を免れている。

この日記の教訓、とここから読み取れるもの。

日記とは何だろう。自分のために書いて後で読み返すと何月何日には何をしていたかがわかる。自分の存在証明、アリバイのようなものであり、分身である。これがないと一週間前でも思い出せない。そういうことのために書いている人も多い。分身と思って疎開をさせた。しかし戦時中の貴重な日記の一つであることには変わりがない。戦時中でも案外うらやましい生活を送っていた方だ。タクシーが禁止とされ悔しがっている。そのために省線にのって出演する劇場に行かなければならない。また電車が相当混んでいたようでその込み具合がもう本当に嫌になるという。また防空頭巾をかぶっているのであれロッパだは、というような声がするとはずかしくなるという。芸能人にとっても大変な時期である。日記から見える彼は悲壮感はほとんどない。戦争の話で一座全員暗くなる、という話をしたとかいうことも日記には書いてあるが、全体的には明るいトーンである。なぜか、彼のおかれた地位、ポジションというものか。生活信条、あまり悲惨な目に合わなかったのか、また根っからの喜劇役者だったのか。7月には戦後の構想も書いている。戦争が終わったらあれしようこれをしようという内容である。

逆に言えば彼自身の本来持っていた気持ちというものはあまり書かれてはいない。つまりこの戦争の中で人生如何に行くべきかということは一切書いてはいない。あるいは特攻隊の兵隊慰問にも行っているがかわいそうとかそういう感情的なことも書いてはいない。事務的とまでは言えないが、基本は事実中心の日記である。マージャンで何点勝ったとか、その金でどこで飲んだとか、闇米を買った、闇食堂でいいものに出会ったとかそういう内容が中心である。しかし書いていないが彼はいわゆる文学は好きだったようで夏目漱石やツルゲーネフ、バルザックなども読んでいた。だから書いていないからと言って問題意識がなかったわけではないだろうと思う。そういう人間感情的なことは検閲も恐れて書いていないだけかもしれない。たぶん自分の人生についての反省的意識がないとこう長い間日記はかけないだろうから。

ウクライナ戦争と関連して

今のウクライナの人の苦しみも大変なものだろうが、庶民はこうした娯楽などあるのだろうか、日本人が戦時中でも芝居を見に行ったように。空襲がひどい時期の6月、7月ぐらいでも東京での彼の芝居は超満員だというからすごい。かつみんな大笑いをして帰るそうだ。ウクライナにも苦痛の果てには何か笑いがほしかったりするのだろう。そういう気はする。そういえばセレンスキー大統領は喜劇役者だったそうだ。日本には喜劇役者になれるような大統領がいるのだろうか。そういう笑いを届ける救いの手はあるのだろうか。心配である。

アフガンに死んだ中村哲という人を想う

「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る―アフガンとの約束」

中村哲 聞き手 澤地久枝 岩波現代文庫(2021年9月15日発行、12月までに三刷)

この本は10年前に岩波から出版された単行本だった。それが現代文庫に入ることになって一部加筆(あとがき関係)されて、中村医師が不慮の死を遂げた後に改版されて出版された。

最近のNHKにも

最近も中村哲さんの遺志を継ぎペシャワール会を存続させてアフガン復興の道を切り開いている人たちがいてつい先日もNHKのテレビに出ていた。彼の衝撃のような死と大きな彼の事業の影響は死後もどんどん大きくなってきているようだ。

彼の略歴を整理する

1946年生まれ2019年12月4日没(ジャラーラーバードにて凶弾に倒れる。タリバンはタリバンの犯行ではないと声明を出している。)

九大医学部卒、専門は脳内神経内科

1984年に日本キリスト教海外医療協会の派遣でペシャワールに赴任、当初はハンセン病を専門にやっていた。

医療より水があれば救える命が多いという認識から福岡県朝倉市の山田堰をモデルとしてアフガニスタンクナール川からの引き込み用水路の工事に着手、2010年に25キロを完成。

この本を読んで初めて分かったこと

彼は内村鑑三の「後世への最大遺物」という本に本当に心底影響を受けたようだ。そのため現地日本人スタッフにはこの本を読ませたそうだ。

また九大にいた哲学の先生,西田幾太郎の弟子、滝沢克己という哲学者、知る人ぞ知る独特の考え方を持つ稀有な哲学者を通じて、バルトのキリスト教にも目が開かれたといっている。滝沢はドイツでバルトの授業を受けたという数少ない日本人の一人だ。これはものすごいことではないか。さらに言えばキルケゴールの「死に至る病」の話も出ている。内村と、滝沢とバルト、そしてキルケゴールだ。さらに小さいころから学んでいた王陽明の儒教の影響、これを知っただけでもこの本を読んだ価値はあるだろう。生半可のクリスチャンではない、ということだ。キリスト教は西南学院でバプテスト派。まともに洗礼を受けた。たぶん全身を水に沈める洗礼と思われる。たぶんこの基本的な思想を受肉しているがゆえに非常に冷静にかの地で活動できたのではないか、と思われる節もある。ということは思想家でもあった。これは当然かもしれない。

色々な賞を受賞している。最後にはアフガニスタン名誉市民権も授与された。

この本の内容

この本は中村さんを知ろうとする人には一番いい本ではないか。澤地久枝というノンフィクション作家という聞き手を介して中村さんの心の奥底まで聞こえてくるようだ。このインタビューは3回行われたということだ。中村さんの日本へ帰ってきた時の忙しい合間をぬって実施したようだ。しかしあとがきにも出ているが中村哲さんも驚いているが、澤地久枝という人は中村関係の調査をし、彼関連の本を隅から隅まで読んでほとんど聞くことがないほどの知識をもって彼女の問題意識をそれに付与してインタビューしている。1930年生まれというから中村さんよりも14歳も年上だ。

そういう年齢のことを考えると、われわれの同時代、同世代といってもいいくらいの人であった。私とは3歳しか違わない。

インタビュー

インタビューの要点は、彼の生まれたころの環境、そしてどうやってこのアフガンまでたどり着いたかの思想的な経緯、さらに彼の家族関係、取り巻く日本政府、また欧米の政府の考え方、アフガン人たちとの関係、問題のタリバンとは何か、アフガンの習俗、日本人との違い、彼らの貧しさ、生活の困窮などについての幅広い分かりやすいインタビューとなっている。大体一話が終わるころは欧米批判と日本批判となる。

あとがき

またあとがきが面白い。1澤地久枝、2中村哲、3岩波現代文庫むけのあとがき澤地久枝、4PMS副院長ジャララバード事務所所長、5PMS職員灌漑事業アドバイザー5人のあとがきで埋まっている。

結論

多くの人に慕われ、自己を犠牲としてまでアフガンの人たちに尽くした医者中村哲の業績を思うと彼我の差を思わずにいられない。同世代である。私もこの本を読んで何を感じるべきか、何をすべきか、もう少し考えてみたい。この本の表題は読者を引き付ける魅力がある。