ロックを読んでみよう、政治を考える鍵がある。

ジョン.ロック「統治二論」(1713年第三版)加藤節訳 岩波文庫 2010年発行 総ページ619プラスα

初めに

結構長い本である。(読むのに約一か月かかってしまった。)まず統治二論という事から論が二つある。まず初めには、王権神授説への批判的内容である。その次には、いわゆる社会契約論といわれているロックの核心部分が書かれている。中央公論社の世界の名著シリーズの「ロック、ヒューム」の巻では(第27巻)統治論とあり、彼の社会契約論である後半部分だけが訳されている。前半も過去には訳されている。(2冊出ている)しかし入手しやすい、読みやすい形で前半が出たのはたぶん初めてではないか。

統治二論、ー前編では、サー、ロバート・フィルマーおよびその追随者たちの誤った諸原理と論拠とが摘発され、打倒される。後編は、政治的統治の真の起源と範囲と目的とに関する一論稿である。ー

という但し書きがある。

この本の非常に現代的な意義を感じる

この本をどう読むか、なぜ今読むか、どういう文脈で読んでいくか、ということをまず考えてみる。日本の政治状況、香港の愛国法、タリバンのカブール制圧、プーチンやベラルーシの独裁政治、中国の共産党一党独裁政治、またそれによる台湾併合問題、北朝鮮、またシリアなどにみられる戦争状態などすべての社会の政治状況をかんがえる基本となりそうだ。

特に後半

特に、後半は非常にわかりやすく社会の成立の構造について語っている。社会契約論という言葉に惑わされず、読んでいくことが必要だ。非常に単純化しわかりやすい。先行する思想がどういうものであったか勉強不足で知らないが、ロックのつかんだ自然状態から社会状態へ移行という問題のとらえ方によって社会が一挙に明晰に理解され始める。この移行は、どういう事情があるのか。自然状態の状況についても彼は自信もって明白に語る。自然状態は自然法が各自を拘束している状況である。この場合は個人の固有の権利、固有権(身体、財産、自由)を保全するために、法律はない、さらにその裁判官もいないがしかし共同の生活をするために守らなければならない法(自然法=誰もがそれに従わざるを得ない法)に従っている状態、これが破られるとすぐに戦争状態となる。弱肉強食状況が生まれる。しかし一般的に各自が均衡(=平和)している状況では自然法が依然として生きている。この状況はある意味非常に不安定でもある。そこで互いに社会に委任代理を置き彼らに立法権、裁判権を与えることにより社会が成立していく。人民の代表者に信託する。代表者は公共善のため=各自の持つ固有権の保全のために活動する。それによって自分も逆に拘束されるが、相手も拘束することによって各自の固有権は保全されるという考え方である。これが一般に言うところの社会契約論である。社会契約論という言葉から入るとそんなことあるかということにもなるが、自然状態の問題から入るからこの委託、同意、信託などという言葉が生きてくる。

社会成立の考え方

ここの社会成立のための考え方が自然状態から社会状態への移行と考えられているところに非常に特徴がある。この自然状態(自然法が支配する状況)という概念と社会状態という概念をうまく対比しながらすべての政治権力について洞察していくのである。社会状態というのは基本的に代理人に合意に基づき委託する、あるいは信託するという行為である。これは現実的には暗黙(黙示的と書かれているが)の承認である。つまり人民がそのことを納得して、同意し、黙認している。特に王権=支配者の権利とその制限という問題は王にも立法の制約があることをはっきりと明示している。そこは天皇とは違う面があるが。最後には革命の権利、抵抗の権利というテーマもあり、この本の最後のほうは特にその種の問題で論争的であり面白い。

この17世紀の終わりから18世紀の初めの時代にこういう考え方が出て来るということ自体がものすごく革命的である。イギリス名誉革命に影響を与えたかどうかは不明であるが、アメリカのイギリスからの独立については実際にこの思想の影響があったそうだ。

振り返って現在の政治状況を見る

ロックはどういう問題意識であったとか、どういう学問をしてきたとか思想史の中での位置づけなどのような学的な探求も必要と思うが、私の関心から言えば、社会成立についての独自な考え方がここには示されているということだ。つまり我々も自ら自然状態と社会状態では何が違ってどういう方法、原理が介在して今のような社会が成立したのかを考えてみるということは非常に重要なのではないか。なにゆえに中国では共産党一党独裁が通用するのか。そういう独裁政権=これは君主制などと似ているともいえるが、立法権はどうなっているのか、選挙はどうなっているのか、中国13億人の社会だからこの独裁は問題ない、とかヨーロッパの思想でまたはアメリカの価値観で割り切ってはいけないなどといわれるが、本当にそうだろうか。そういうことに関しては中国には中国独自の進むべき歴史があるというような考え方で本当にいいのか。ウイグル自治区の強制学習、香港の愛国法はロックの言うところの固有権の侵害ではないのか。この当時の固有権というのはブルジョワジーの特権のような権利であるという批判もあるが、我々も社会成立の基本にさかのぼって今の世界政治を見る必要がある。そういう意味ではロックの考え方は非常に示唆に富んでいる。彼の考え方は革命まで突き進んでいるのだが、マルクスの革命とは全く違って、社会に委託した立法権なり王権というものがその役目を果たさないときは社会状態といえども自然状態に戻った時の状態であるとみなし、革命権も人民は持っているということを語る。これも人民自身の持つ固有権の保存というテーマである。またどういう場合に革命権、抵抗権が認められるのか。こういうことについては最終章に詳しく述べられていて非常に面白いということが言える。(権威についても期間限定である、という考えかた。親の権威については子供が成人したらなくなる。王の権威も社会成立のための固有権保存に寄与できる時にだけ権威があるという発想である。)

追記

前半は神が嘉したもう人物が王となるということだ。天地創造のアダムには最初から神が王としての権利を与えた、というものである。そのことを批判しているのだが非常に微に入り細に入りである。この話がこの本の約半分であるが、たぶん多くの人はこのあたりのテーマは興味ないともいえるだろう。またある本=つまり王権神授説を書いた人物の論理を批判しているもので、その本を読んでいないとある意味わからないともいえる。しかし何を説得するにしても聖書を持ち出さないといけない。こういう場合の聖書は救済の書というより法律のための書ともなってしまう。だからそういう意味では支配者のための書物でしかなくなってくる。

味わい深いアメリカ独立時代のコモンセンス

岩波文庫 「コモン・センス」トーマス・ペイン著、小松春雄訳 昭和28年発行

(原著は1776年フィラデルフィアで出版)

初めに

この本はロックに引き続き古典中の古典とされている本である。しかし今の今まで読んだこともなかった。何が書いてあるのか。世界史の教科書であるとか、アメリカの歴史の本では、あまりにも必ずこのトーマス・ペインの「コモン・センス」はかならずでてくる。どんな本でも出てくるので案外読んだ人も少ないかもしれない。そう思って読んでみた。

ページ数は岩波文庫の小さな活字ではあるが、100ページないくらいだ。解説のほうが長いくらい。

トーマス・ペインという人は学者でもなければ金持ちでも貴族でもない。親父のやっていたコルセット製造業者である。この事業も独り立ちしたとたん失敗したり奥さんがなくなったり、破産の人生も歩んでいる。ある意味インテリでもなく、たぶん純粋な労働者階級でもないのだろう。クエーカー教徒だった。ただしイギリスに来ていたベンジャミン・フランクリンとの出会いがあった。

概略

簡単に言えばイギリスからの独立がそれこそ「コモン・センス」であるということを大胆に主張したものだ。当時の政治的状況ではいろんな選択肢があった。イギリス政府との和解というのが大勢の意見だったようである。何とかアメリカの実情をイギリス国王に理解させて不当な税金や法律は廃止しようという王への請願運動が主流であった。当時は独立という言葉はあまり出なかったようである。それは大逆罪にあたるというのも一つの理由だが、実状的には多くの民衆はイギリスの植民地で臣民であることを尊重していた。またイギリスという祖国、故郷、母国という言葉に代表されるように、イギリスに逆らう、反逆するという発想はあまりなかった。フランクリンも税金問題でイギリスを訪れていた。これも請願の一種だった。しかしこのジョージ三世はこのフランクリンの申し出を否定した。印紙税条例や茶会パーティ事件やその他の虐殺事件が続いたあげくジョージ三世の悪政という言われるものがたくさん出てきた。また当時フランス革命が勃発しそうな時期でもあり、イギリス国内では王の悪政ゆえのロックの思想のリバイバルが起こっていた。(ペインはこの時アメリカへ来いとフランクリンから誘われる。)

そういう中でイギリス人であった彼が、王制の馬鹿らしさ、愚かさをよくよく知っていたがゆえに、いち早くアメリカは和解ではなく、戦争をしてでも独立が必要だ、と発表した。当時彼は新聞の社説を書いていたようだ。この本は50万部売れた。当時のアメリカは300万人くらいしかいなかったということだから文字を読める人が大半読んだ。ものすごい影響だった。

非常に内容が若々しい。独立の気風にあふれ勢いがあった。多くの人を魅了してやまないわかりやすい文章であった。学者のような持って回った表現はない。また視野の広さ、説得力のある言葉で歴史的にも、世界的にもこの独立のために大事な時期を逃せない、とした。

年表を確認してみよう

1764砂糖条例

1765印紙条例

1769英商品不買同盟

1773ボストン茶会事件

1775アメリカ独立戦争

1776独立宣言トマス・ジェファソン起草

(「コモン・センス」はこの独立宣言の前に書かれ大きな影響を与えたという。)

1789初代大統領ジョージ・ワシントン就任

1789フランス大革命起こる

結論的に、この本を読むと次にはどういうことを考えるか

当時のイギリス政府と王を立場を鑑みるに、今の習近平の第2次文化大革命のような、または共産党独裁のような意味を持っているように見える。人権から見ると不当な法律、またさらに香港、台湾への異常な圧力のかけ方などはこのアメリカの独立時の状況と似ている感じもする。臣民であれという要求は共産党の道徳運動、共富政策に似ていなくもないのである。

こういう「コモン・センス」のような古典はいろんな意味に読めるしある意味現代政治を読み解くカギにもなってくるかもしれない

自然の中の生活、驚きだ。

ソーロー作「森の生活―ウォールデンー」神吉三郎訳、岩波文庫

(WALDEN、OR LIFE IN THE WOODS 1854 Henry David Thoreau)

ウォールデンとは地名、有名なウォールデン湖がある。(アメリカ合衆国マサセッツ州コンコードにある。ボストン北西40キロメートルあたり)また現在は多少観光地になっているのか、ソーローの住んでいた森の生活の小屋が再建されている。

1概略

この本は、1845年(アメリカ独立記念日)から2年2か月自分の住んでいたコンコードの南、2.5キロの地点にあるウォールデン湖のほとりで森の生活をしたことについて書いてある。年齢から言えば彼が28歳から30歳にかけてである。アメリカ創世期の古典といわれる本である。(アメリカ創世期という言葉は、現地人を蹴散らしてヨーロッパ諸国から侵略という移民が始まった時期である。)

状況だけ言えば、小さな木造のたぶん一部屋しかない家を自力で作り(今でいうログハウスのようなもの)、(ウォールデンについてはグーグルマップでみるとウォールデン湖、またそのすぐそばにソーローのすんでいた再現された小さな小屋などの写真がある。湖は結構大きい。61エーカー、周囲は1.7マイルというので広さ25万平米、周囲2.7キロ、周囲2.7キロといえば約1時間もあれば歩ける距離ではあるので大きな池といったほうがいいのかもしれない。)そこで何とか自作した豆や芋などを食べて自活した孤独な生活である。しかし、町や村から隔絶しているわけではないので、たった一人きりでだれとも会話もせずに生活していたわけではない。結構な人が訪れたり自分も町に買い出しに行ったりしている。だから孤独な生活だということは紛れもない事実ではあるが、北極のようなところに住んでいたわけではない。人里は案外近いところにある。。その2年の歳月の間に感じた様々なことを書いている。だから孤独を生きるというのとは違っている。最初のほうに書いてあるが、彼自身は2,3週間働けば1年分の生活ができるといっている。だからなぜみんな苦労してそんなに働くのかと。こういう単純な生活をしてみることによって何が得られるのか、何が知りうるのか、なにがかんじられるのかという人生上の重要な発見をしたいということなのかもしれない。また修行僧でもない。

(ついでに)

ヒロシです、ではないが、現在日本ではやっているキャンプ生活の先取りといえなくもない。しかし現在流行のものは、雑誌など見るとわかるが何もかもいろんなものを買わないとキャンプができない。都会生活をキャンプに持ち込むなんてたぶん彼にはない発想だろう。何せ時代が時代で便利なものはない時代だ。アメリカではほとんどのものを自作しないと生きていけない時代だった。のこぎりとかやかん、鍋はあったようである。水は池から汲んできたと書いてある。うまかったらしい。また夏の氷用に春先に切り出して商売をする人たちもいたようだが、運ぶ途中で溶けてしまうとも書いてある。なお溶けやすい氷というのは中に気泡が入っているものらしい。日光中禅寺湖、あるいはその周辺でも同様のことが行われているようだ。

2,この生活の目的

この最初の目的は何だったか、人生を知りたいという欲求であったという。本当の人生を知りたいがゆえにこのウォールデンに来た。2年いたのだが、何かこの自然を味わいつくしたのか、知り尽くしたのかわからないが、彼の所期の目的を完了した、つまり人生とは何かを発見したのかもしれない。それで忽然と都会に戻ったのである。

3,書いてはいないのであるが、この本を読んで感じることがある。

1)彼の周囲はすべて彼の財産であるがごとくである。

まず、我々の目の前に広がる世界は我々の財産であるということである。これは勝手に処分はできないのではあるがみんなの共有の大事な財産である。それは宇宙であれ、この湖であれ、景色であれ、そこの水であれ、たまにやってくる動物であれその動物の生活や世界であれ、みんな財産なのである。この財産を彼は、自分には所有権はないが知り、味わい、見、考え、そして発見し、会話し、歩き、楽しみ、そして生活する。彼はそれが自分の財産のごとく考え、また使用する権利を持っているが如くである。何も所有していないが富める財産家ということである。そういうことから考えると我々の住んでいる町や村の景色や人々も互いの財産であり、私の存在もあなたの財産でありあなたの存在も私の財産である、ということが言えるのである。所有権や処分権はないにしても、互いの存在は互いに財産となっているのである。毎日通っている電車の通勤や駅の混雑もかけがえのない財産なのである。こういう景色、騒音、混雑何もかもが財産である。ウォールデンとは違うがたくさんの人たちと同じ場所で暮らしている、そのこと自体が大きな財産であるように感じられ、大切にしなければならに様な気にさせられる。たぶん書いている本人もそういうことを感じたのではないだろうか。今までそういう観点で町や景色を見たことがなかった。日々のウォーキングの時にはさらに一段と感じられるようになってきた

彼の嫌いなものはたぶん金の使い放題のオリンピック、一位二位を争うようなスポーツに何の意味があるかと、また会食、パーティ、気取った会話、不要な飾り、グルメ的思考、虚飾、着飾ることなどか。賞金の額の大きいスポーツ、イベントみんな嫌いだろう。

2)彼の生活の仕方

彼の知識は大変な博物学者に匹敵するだろう。また彼は測量技師だそうで距離に関しては非常にうるさい。池の深さを測ったり、隣の家や村までの距離とか、池の中の地形の形を探ったり、鳥の飛翔する高さがどのくらいとか、氷の厚みはどの程度とか距離に関しては結構細かい。(フィート、マイル、ロッド、エーカーなどの単位があっちこっちで出てくる)たぶんマルクス描くところのルンペンプロレタリアートよりも一見すればさらに貧しそうな生活をしているのである。しかし彼は貧しくない。金持ちではないが財産がある。彼の周囲にある自然と宇宙は彼にとっては大なる財産である。また生活も計画的であり金銭の計算もできている。孤独な修行僧でもなく計画して生活できる近代人である。(ある部分ロビンソンクルーソーに似ているかもしれない)どんなものでも毒でなければまずいものも食えるとある。料理もできる。小麦の量を図ってパンを作り違う種類の小麦を混ぜておいしいパンを作るなどもできる。これはデューイのプラグマティズム的といえるかもしれない。ここはよきアメリカ的だろう。さらに彼の小屋を作る時のイメージは、「大草原の小さな家」で最初に家を作る場面があるが、ほぼそれと同じ感じであろうことは想像できる。

4,アメリカ創世期の古典としての地位

この本が古典であるゆえんは、われわれに自分の人生を一度振り返ってもっと単純な生活をしてみたらどうかと勧めている。ベンジャミン・フランクリンとは全くの対極にいる人である。(独立志向、個人主義、理想主義は似ているところがある。)何のための金であるか、何のための労働であるか、何のための便利さであるか、そういうことを一度断ち切ったり、振り返ってみて本当に人生で必要なことだけをやったらどうなるのか、という提案である。ものすごくラディカルなところに彼はいる。

5,エマーソンとの出会い

彼自身はいろんな人の世話によりハーバード大学で学んだ。そのハーバードでラルフ・ワルド・エマーソン(思想家、宗教家、哲学者)との運命的な 出会いがあり、死ぬまで関係があった。しかしこのハーバードでの学問というものもその時代の最高の知識を提供しているようだ。かれの引用している古典ギリシャの詩やラテン語の詩など学生時代にそういうものを一通り身に着けてしまうレベルではあった。

このエマーソンとの逸話がある、それは「市民的抵抗」にある。メキシコ戦争と奴隷問題で州政府に税金を払わなかった。そのため監獄に入れられた。エマーソンが見舞いに来てなんでそんなところに入っているのかと聞かれたが、あなたこそ早くここに入りなさいといったというのだ。この逸話は非常に面白いし、ソーローの独立主義、自由主義がはっきり出ていると思われる。

6、最後に

ぜひ一読されたし、である。この本を読んでいて簡単に読了できると思ってスタートしたがなかなか終わらない。案外長い本である。また自然観察の妙については、本人にもある程度の自然科学や博物誌の知識があったと思われる。そういう意味での健康な近代人が人生の意味を知りたいという人間の本質的な要求に贅沢に向き合った著作といえよう。

この種の本は日本には少ないというか似ている本はあるが全く違うだろう。その昔で言えば櫛田孫一の随筆、この方は山歩き専門、かつ哲学者。太田愛人の「辺境の食卓」「羊飼いの食卓」などが多少似ているかもしれない。太田は信州の牧師生活のなかの田舎生活を描いた。その後は思想史に専念している。

アイルランド、ダブリン、ジョイス

「ダブリンの市民」ジョイス作、結城英雄訳、岩波文庫 2004年発行(原著1914年)

この本をなぜ読むのか

高校時代の英語の先生が「ダブリナーズ」という本を読んだら、と言っていた記憶があってずーっと気になっていた。朝の電車の中であったか帰りだったか忘れたけれど、電車の中でそう言われた。僕が大学では英文学の勉強をしたいとかといういい加減な話をしたのかもしれない。夏目漱石が英文学を専攻していたこともあり憧れとしての英文学を大学で勉強したいというようなことを言ったはずだ。夢想だった。そこから50年以上たってやっとこの英文学らしい本を手にしているのである。他に自分に少しでも影響のあって読んだのはT.S.エリオットの詩くらいか。他の詩人も読むには読んだがんなとなく感じることもなく今まで来たというのが実状である。だからそこまで英文学に特に執着もしないできた。それに小説はあまり読んでいない。

このダブリンの市民という題名

やはりダブリンの人々のほうがいいのではないか。市民という訳語にはたぶんほとんど意味はないだろう。市民の事を語っているわけではなく、アイルランドのダブリンにすんでいる人々のことを書いているだけである。ヨーロッパで市民といえば階級を指すのである。

この本の内容

この小説は15編の短編小説からなっている。

それぞれの内容は、読んでもらえればわかるが、ダブリンに住む人々の情景を写真のように切り取ったものだ。ある時期の若い男が友達とこんな話をしたとか、その物語がどんな意味を持っているのかはよくわからないことが多い。それがおもしろいのか、面白くないのかもあまりよくわからない。ダブリンに住んでる人間ならあの付近の事かとか、たぶんこんな感じの若いお兄さんのことだとか、お姉さんのことだとか、そういう人もいたなとかイメージはすぐ出てくるのだろうと思う。ある意味手触り感のある物語である。起承転結風に何か事件が起こってその結果がどうであったかというような話ではない。静かに時間が過ぎていく。登場人物がいろんなことをしゃべり、思う。酒場や事務所やパーティで。しゃべっている。何か結論のようなものがあるわけではなく、しゃべっているうちに話が終わる。ところが劇的な終わりではなく、なんとなく苦いものが心の奥底に沈殿していくような感じである。そして日々が過ぎていく。しかしそこにある種の感情が盛り込まれている。文章の印象は明るい、さわやかな感じだ。しかし書かれていることは悲しい事や今の自分は何なのかと、つぶやいているようなやや暗いことがテーマとなっている。それでどういう結末になったというようなことはほとんどない。いったいどういう小説なのか、という感じもする。

特徴

この小説の特徴といえることがある。それは意識の流れ派とか言われているものと関係するのか。登場人物の主人公と思われる人の考えたり、思ったりすることが非常に長い。状況の説明はごく短い。たくさんの人がしゃべる。その文章の書き方だが、だれだれが『・・・・』と言った、というようにふつうは書くのであるが、だれだれが「…」といったというようなト書きが途中からなくなって誰が言ったか分からないようなしゃべっている言葉が連綿と続く。そういう文章を読んでいるうちに何となく自分もその会話に入っているような感じがしてくる。客観的な説明はなく出てくる人たちについては殆ど読者も既に知ってるかの如くだ。不思議な語り方、仲間内のような会話である。読者もその仲間だ。また突然だれだれが言ったという言葉も復活してくるが、それでもその不思議な感覚はずーっと残っていくのである。

印象

アイルランドの歴史が多分いろんな影を落としているだろうことは、なんとなくわかる。それに何か自分もその場にいるような感じさえするので、面白いといえば面白いのである。

特に酒場の場面の会話などリアルであり私もいればこんな会話に参加しているだろうという臨場感がある。全体的なトーンは乾いていて、明るい感じ、さわやかな感じもある。読後に悪いものは残らない。しかしその明るい、さわやかさの中に悲劇的なものを隠している。だからやはり深いのである。もう少し、ユリシーズやフィネガンウエーク、ある若き芸術家の肖像など読み進めると何かわかってくるのかもしれない。この一冊では何ともしようがないだろう。しかし世界文学に触れたという感覚は残る。

最後に

一番わかりやすいのは、最後の少し長い短編の「死者たち」という題名の物語である。これは冬の夜(アイルランドは島全体が雪だったとある。)楽しいパーティが終わって、皆さんとの帰り際によくある光景であるが、出口でたくさんの人たちと楽しさのあまり異様にはしゃいでいた主人公が、みんなと別れて、奥さんと二人きりになってホテルの部屋に入ってからあることを告白される。その奥さんが告白した内容は彼女がまだ10代のころのある人との悲しい思い出であった。それを主人公である夫は聞かされる。その話を聞いて夫は奥さんにもそういうことがあったのかという深い感慨を抱く。そこでこの物語は終わっている。なぜその告白が出てきたのかは楽しいパーティが終わったころに誰かが弾いていたピアノの曲から突然思い出されてきた事だった。ここの書き方は非常にうまいと言ったら失礼になるが、有頂天になるほどの楽しいことと二人きりになった時の悲しいことが突然対比される。極端なほどで劇的な対比の仕方である。人生の陰影なのか人生の真実なのか、強烈に鮮明に表に出てくる。表面的には隠れていたものが浮かび上がってくる。人生とは何か、自分とは何かという疑問である。彼の世界に沈潜したい感じがする。

日本人の性格を決定した荘園制

伊藤俊一著「荘園ー墾田永年私財法から応仁の乱まで」中公新書 2121年9月初版発行

この本をなぜ読むのか

朝日新聞、2021年11月20日付読書欄にて取り上げられた。清水克行(明治大学教授日本中世史)という方の紹介記事があり、50代以上の男性中心に読まれている様である。4刷4万部。独ソ戦ほどではないが、この地味な本としては売れているほうだろう。

この記事にも書いてあるがこの分野では永原慶二の「荘園」(吉川弘文館)、石母田正「中世的世界の形成」(岩波文庫)、網野義彦「日本社会の歴史」(岩波新書)などの業績があり、彼ら大御所の見解が固定化された常識になっていた。大体、永原、石母田の二人はマルクス主義歴史観である。また米、農民主体歴史観だ。その後の網野はそれを批判して出てきた。特に石母田については厳しい批判をしている。かつてはマルクスとの関係で奴隷制、封建制という論争の多い分野だったが最近ではあまり人気のある分野ではないそうである。学者間での人気なのか読者市場が少ないのかわからないが。またよく日本の封建制という言葉が西欧から来た封建制と同じであるという理解が以前から長い間あった。しかしこれは似て非なるものだという見解が現在では出てきている。これもマルクス主義の歴史一直線的理解のたまものであるが、現在この見解は崩れてきている。ということで、ある意味地味な、しかし重要な日本の構造を知るために欠かせない分野で良書が出たというので早速読んでみた。

読後

荘園というのは、国の税金的に相当優遇された特殊的、特恵的な私有農地を中心とした領域ということである。荘園の歴史とは簡単に言えば、この優遇される領域を誰が実質的に支配するのかといった、この支配権の交代、移動、構成の移り変わりの歴史である。荘園の土台となる農地での農民は米を作るという一事で何百年も変わらない労働をしている。その上にいる上位の支配権が変化していく。

確かに今までの荘園観とは違うだろう。まずマルクス主義的な奴隷制という見方はほとんどなくむしろ、最初の班田収授などは良かったと思われる節がある。(この本の終章、荘園とは何であったかに明らかにされている。)また荘園の果たした役割も悪いことばかりではなかった。著者の一番の荘園の功績は里山をのこしたことだという。(持続可能な経済圏)

当初の口分田は一人一人に田圃を与えてそこから3から10パーセントの年貢を納めるとあるので、江戸時代に生かさぬよう殺さぬようというのとはだいぶ趣は違うようだ。また初期荘園になると自分の所有している口分田プラス荘園の仕事がありこれも実際には実入りのいい仕事だとある。

しかしこれを読んで荘園制そのものを分かりうるかというと相当分からなくなるのではないだろうか。新聞の書評でも初学者にはむつかしいとある。分かったようなわからなかったようなというより、荘園制というのはむしろわかりにくく簡単な構造としてとらえられないということでもある。支配層から出るいろんな令がどんどん変わっていくその変化と実態は同じなのかどうかもよくわからない。何度か読めば頭に入るようなものかもしれない。特に中世史の専門用語を理解していく必要がある。

また天候の変化が一年ごとに分かるようになっているようで、その科学の成果も生かしながら論じられている。(中塚武、年輪酸素同位体比の研究による降水量の変動)また途中途中で義経の話や北条政子の話などが織り込まれていて歴史物語としても面白いとも思える。

また最後に農民の姿が描かれている。これも重要だろう。特に飢饉、飢餓の多い中世時代の農村は、そういう困難な状況にありながら年貢の減免要求などや二毛作、二期作などの工夫をし、そのことによって次第に自立してきている。農業経営、互助会の仕組みなど惣村内部での結束や農業技術の蓄積などから、上位の権力者と争う場面もあり、そのことによって自立化の兆しが出て来る。

問題

私の問題意識と残された問題としては、やはりこの荘園の時代は長かった。約750年続いていたのである。この時代の人の思想がどういうものであったか、荘園制とは天皇を頂点として多層的な支配関係である。何重にも農民が生産したものを少しづつ盗むように取り上げていく仕組みだ。こういうものが日本人の性格を決定的に決めたのではないかという気がしてならない。

大手商社が2次店、3次店という系列を作り、下手をすると4次店などといって消費者に届くまでに何軒もの会社が介在して口銭をとる商売というものが一般的にあるが、こういうのはこの時代の面影を残しているのかもしれない。それに「結構」という言葉がイエス、ノーのどちらもあらわすというような使い方で通用しているのはこの時代に育まれたものかもしれない。これは天皇制的階層性とでも言いうる世界なのかもしれない。

またもう一つ問題がある。それは仏教である。やはり長い間、東大寺を頂点とする仏教は、天皇という支配層のお気に入りの宗教だった。この荘園制でも出てくるが、相当にこの恩恵に浸ってきているということがはっきりする。そういう意味では国家護持宗教としてはいいのであるが本来的宗教としての仏教は鎌倉時代を待つ必要があった。そういう意味では支配層に必要な支配者型宗教として仏教は歴史上成立していた。ヨーロッパのカソリックと同様だ。この点は経済的にも実証されているので興味のある方はその箇所だけでも歴史認識上重要と考えられるだろう。非常に世俗的であることが言える。

ついでに

この時代の用語がある程度新解釈とともに明確に語られているということはわかりやすい。

例えば国司、群司、名、地頭、守護、領域型荘園、寄進型荘園、在地領主、知行国制、最後のほうに出てくる惣村という言葉も明確に書かれている。

最後にもう一つ、律令制にしろこの種の法律は中国から来たものであるが、そういう中国の法律である漢文を逐一翻訳して日本に適用しようとしていた知的官僚層というのはどういう人たちであったか。この本には貴族の官僚養成機関である大学に貴族ではない郡司でも優秀な人たちは入れる(空海はその一例、2年で中退したとある)という記載もあるのでこの辺りはもっと詳しく知りたいところでもある。つまり中国の法律を研究する機関(当然その他の文化的なものも含めて)があったということである。当然ながら日本の朝廷には中国人や今でいう韓国人もいたし、北方民族の関係者もいたとする著作もある  。

クリスマスの日にブレイクを読む

対訳ブレイク詩集イギリス詩人選(4)松島正一編訳、岩波文庫2004年

今回は詩人のブレイクを取り上げる。(1757-1827)

一通り伝記風のものも読んだが、なんとなく風変りの人である。

彼は銅版画家

しかし近年非常に注目されているということで気にはしていたが、とっつきにくい雰囲気を漂わせている。彼の銅版画の画像を見るとわかるが、顔が異様に大きい足も同様である。グロテスクである。少し気持ち悪い。しかしこれらはある意味挿絵だと考えれば納得いくものではある。普通の絵ではなく本に文章上の理解を助けるために書かれた挿絵である。だから勢いデザイン的になるのだろうと考えてもおかしくはない。またこの詩人であるブレイクは基本的には銅版画家だ。生前は詩人としての名声はない。彼の職業は基本的にはこの銅版画家としてキャリアである。(1990年開催の国立西洋美術館で開催されたウイリアムブレイク展の時に発行された『ウイリアム・ブレイク』という厚手の本はこの銅版画にブレイク特有の彩色した絵をかなりの数を写真化しておりその美しさは本当にこっちのほうでの芸術家であることを証明している。日経新聞社刊))

かなり異端的宗教に近かったか

伝記を読むとスエーデンボルヒの宗教などをかじったようでやや異端風なところが垣間見られる。しかし彼の銅版画の素材は、ミルトン失楽園、聖書ヨブ記などであるから基本的にはキリスト教徒と言っておかしくない。

「虎」、「ロンドン」という有名な詩について

かれの詩の解釈はいろいろあるが、今回これを取り上げるきっかけとなったのはなんとなく読めるのではないかという気がしたからである。突然これは理解可能ではないかと思った。特に有名な「虎」については理解できる、と思った。そういう気持ちになったというだけだ。深い解釈があるわけではない。凡人でもこの有名な詩を感じることができる、ということだ。

いろんな研究があり研究本だけで歴史を感じるほどであるが、一編の詩も感じられなくて自分にとっての大詩人なのか、という疑問もあり、一つ二つの詩を感じようということで読み始める。

伝記など読めばわかるが、彼は社会的には非常に批判的であって特にフランス革命によって大きく影響を受けた。さらにそのフランス革命が革命後には反動に後戻りするのを見て人間世界の全体の深刻な問題についても理解し批判的になってきたといってよいだろう。

「虎」

そういう意味で彼の詩は社会批判、人間批判と思って読めば読めないことはない、と強い確信のを持って、超有名な「虎」(岩波版の訳者は表題がTigerではなくてTygerとなっていることに注意を促している)という詩を読んで見る。

最初の4行

虎よ、虎よ、輝き燃える

夜の森の中で

いかなる不滅の手で、あるいは眼が、

汝の恐ろしい均斉を形作りえたのか。

最後の4行

虎よ、虎よ、輝き燃える

夜の森の中で

いかなる不滅の手で、あるいは眼が、

汝の恐ろしい均斉を形作りえたのか。

リフレインとなって終わる。

私の解釈

ここではいかなる不滅の手というのは創造主、神の事だろうと思われる。

虎、というのは獰猛で暴力的なそして強い悪そのものだろう。

神と悪との対立と同居の問題を虎を象徴としてとらえた。悪も神が作ったのだ。この矛盾を感じて書いている。そこには鋭い批判精神と世界への深い感受性が生き生きと現れている。

つまりこの詩は悪というものがどれほどの恐ろしさと逆にどれ程の美しさと魅力を兼ね備えているのか、やはりそれもなぜ神は作ったのか。これはダンテの新曲にも出てくる虎である。この世界が生半可で理解できないしそれがゆえに自分を悩ませる。簡単に割り切ることができない。それゆえにこの世界もまた新鮮な驚きに満ちている。

そこがブレイクの近代的な視点を感じさせるところだ。

彼自身は正統派キリスト教であったかはよくわからないところであるが、キリスト教的な発想はしている。その後のヨブ記の挿絵や、ミルトンの挿絵などはそういうことを想起させるものである。

分かりやすい「ロンドン」という詩

この「虎」のあとに「ロンドン」という詩がある。

これも社会批判的な詩である。

最初の八行

特権ずくめのテムズ川の流れに沿い

特権ずくめの街々を歩き回り

行き来する人の顔に私が認めるものは

虚弱のしるし、苦悩のしるし

あらゆる人のあらゆる叫びに

あらゆる幼な子のあらゆる恐怖の叫びに

あらゆる声にあらゆる呪いに

心を縛る枷のひびきを私は聞く

こういう社会問題的なそして社会批判的な姿勢のある詩が基本的にあり、ある意味わかりやすい。

社会派詩人一辺倒かというとそうではない詩集もある。預言詩等もある。単なる社会派ではない。ちょっと違うようでもある。

一応紹介はここまでである。垣間見た程度で申し訳ないが、これ以上は今後のブレイクとの長い対話が必要だ。後日私の力の及ぶ時に再度取り上げたい。

最後に

この岩波版ブレイク詩集については、専門家にはかなり物足りないだろうが入門編としてはこれで十分感じることもできるだろう。

このブレイク詩集は英文と参照できるので分かりやすいだろうと思う。また選ばれた詩は有名な「無垢と経験の詩」からの採用が多い。

この詩人の全容を知るには相当な研究もありそちらを読むしかない。こういう詩であったのであれば読めるという人もいるだろう。今回は入門的紹介である。この詩人はイギリスの中では異色のほうであろう。ワーズワースなどの自然詩人と比べれば全く違うといってよい。視点が全く違う。T、S エリオットやオーデンに繋がるのか、ミルトンやダンテに近いのか?わかりにくいところに魅力がある。

背教者という思想形成

武田清子著「背教者の系譜」岩波新書、1973

最初に

この本は古いものであるが、今読むとどういう事になるのか。そういう興味もあって読んだ。ただ今では限界があり古いのか、今なお価値ある作品であり続けているのか。(要するに丸山真男とか大塚久雄などの文化的知識人と言われている人たちの華やかなりしころの作品であり、われわれが学生時代に読んでいた本の一つである。)

背教者

背教者というものがなんであるか、という定義。これは、著者にとっては思想的に非常に価値ある背教者のことを指す。つまり教義に収まらないではみ出していく人々によって新たな思想が生まれているのではないかという問題意識だ。代表的な人物として木下順二を取り上げている。ここでいう背教者というのはキリスト教からの背教者であるが、それが日本の中である意味正当派キリスト教の枠に収まらないが故の背教者であることを自覚的に選び取った人のことを指し、かつそれが日本のエートスおよび思想をより豊かにするような思想になりうる可能性があるとしている。

背教者のイメージ

ただし、私見を言わせてもらえれば、現代の背教者とは本当はどういう人がイメージされるだろうか。江戸時代の隠れキリシタンの場合とか戦前のマルクス主義者とか何らかの権力による弾圧があって、持っていると社会的に抹殺される思想、信条から離脱するような場合かその種の弾圧がその人を左右して離脱せざるを得ない場合などではないだろうか。つまり背教者であることが政治的に弾圧を逃れたり、逆に以前持っていた思想や信条に反して権力に沿う形で協力したり裏切ったりすることではないかという気もする。現代の背教者というのはそういう政治的なことは一切ない。黙っていれば背教者であるかどうかなどということは一切わからないわけである。だから著者はある意味で広い意味での背教者というものを設定している。そういう政治的な場合だけを意味はしていない。

その中でほぼ最初の半分はこの定義なり例外なりの説明に終始している。最後の半分は木下順二という劇作家、戯曲家の非常に特異な考え方について書いてあり、ある意味彼に関しての評論であるかのようだ。

木下順二のどこに意味あるのか

木下順二の戯曲の特性や考え方はいろんなところに出てくるのでそういう対談やエッセイなどから読み取っていく。

木下の戯曲の特性とは、原罪意識ということである。これはキリスト教的であり、超越したものを見ている思想だということだ。また自己否定というキー概念が彼の持っている思想である。日本人の持った原罪は沖縄、朝鮮、中国だという。なぜこれを原罪意識かというと、自分がやったのではないが近代日本に生まれた自分の問題であることを背負わされている、ということだ。自己否定はオイディプス王の悲劇にあるように、自分の目をえぐって初めて今まで見えなかったものが見えるというところに木下は、このギリシャ悲劇を見ている。かつ本人が言うには戯曲というものはこの上を見る目と自己否定がなければ成立しないものだという。また対照的に近松門左衛門や、現代の秋元松代との比較であらわになるのであるが、近松や秋元は堕落の底に落ちていくことに快感さえ覚えるような世界にいる。それを是としてしまう立場である。そこには自己否定や原罪意識のかけらもない。否定はなくあるのは自然性であり、解決不能な絶望感である。その虚無の中に漂うことに人間の悲惨さと恐れを感じている。そこには人間の全くの方向転換による革新的な生活や思想を生み出せない、自然性をそのまま認める世界である。M.WEBERが言った魔術の園に遊んでいる。いまだに。

というような、著者の見解の中で、私自身木下順二の作品も秋元松代の本も読んだことはない。そういう意味では最低でも木下の本は読んでみたい気になった。課題が増えていくが、大事なことだろう。

近代思想の多様性

ほとんど前半部分を省略したが、ここに出てくる人の名前、ガンジー、マルチン・ルーサー・キング、ラインホールド・ニーバー、チャンドラボース、ネルー、ボンヘッファー、ティリッヒ、ハーヴィー・コックス、チェコのロマドカ、幸徳秋水、木下尚江、荒畑寒村、内村鑑三、矢内原忠雄、賀川豊彦、有島武郎、高畠基之、宮崎滔天、相馬黒光、柳宗悦、などなど。キリスト教正統派である人のほかにキリスト教の影響を受けてキリスト教の枠外に出ていった人々などが近代日本には数多く見いだされ、それぞれが興味深い。

戦前から戦後にかけて思想的苦闘の中で新しい思想を構築していった。それそれの位置づけに関しては簡単な説明があり、近代思想史のような観を見せている。

しかし彼らの個人個人の内面においてキリスト教、マルクス主義、天皇制との葛藤の中で新しい方向が生まれてきた。その内面の思想的な苦闘というものが多様な形であらわれている。そういうことから貴重な思想的な財産というものが近代日本にあるのだということを知ることになる。この本の別の面での重要なところではないだろうか。(現代の多様性という考え方をすれば、転向だから駄目だとか、マルクス主義だから、キリスト教だからという、あるいはその亜流だからとかそういうレッテルで判断しないほうがいい、という考え方が出てくるだろう。)

最後に

こうして読んでいくと本書のテーマは、背教者の問題ではなくて、抵抗者の問題ともいえる。現代の香港、中国というようなまたロシア、北朝鮮などの国々の抱えている問題における抵抗の思想の問題ともいえる。長い間かけて来た抵抗の思想と実践が、ガンジーから始まり黒人解放にも影響を与えた思想が、ここにきて頓挫し始めている。

方法としての希望、未だ、ない、世界

エルンスト・ブロッホ「希望の原理」1.2.3巻、白水社1982年、山下肇他訳(原著1959年ズールカンプ社)

初めに

今回はこの本の第一巻をほぼ読了したというのでこのブログに載せようと思い立つ。

この本は私の若いころから一度は読んでみたい本の一つであった。しかし読む機会がこの年まではなかった。歳を取ってからのこの本に向かい合うには少し遅すぎているかもしれない。というのは、翻訳で一巻は大体650ページである。こんなに長い本を読むだけの忍耐力はかなり落ちているといえよう。足が丈夫でも70過ぎた男がマラソンをするようなものである。大変な事になる。しかし読み初めにはそんな大変な山岳が待っているともつゆ知らず、歩いていくうちにあまりに壮大な山でいろんな装備が必要だったということに気が付く。また読解するだけの力量も忍耐力も必要である。専門家であれば違うのかもしれないが、たぶん多くの人はこの本を読了しないでつまみ読みで終えているのではないか、とも思いたくなる。

この辺で前段を終えて

中身の検討に入る。この本は難解である。何を言っているのかよくわからない。いろんな話が出てくるがそれがこの本の表題となっている希望の原理とどういう関係にあるのかということは皆目わからない。富士山のふもとにある樹海に入った感もする。道に迷って疲れ果て倒れて死にそうな本だ。

しかし自分に鞭を打ち、

少しでも読んだ時間をとりもどす必要もあるのでどうにかして理解をしようと務めた。

結局、結論から言えば、彼の書いたユートピアの精神の線に沿って、つまりユートピアを夢見るという事が非常に重要である、ということ。そのユートピアは社会主義である。なぜ社会主義かといえば、階級社会は人間になっていない社会で、社会主義はやっと本来的な人間になれる社会であるということだ。希望に満ち、夢見、理想をもてる社会。それを提唱したマルクスの思想というものがまさにユートピアを志向し、我々に希望をもたらすのである。逆に言えば我々の希望というものが、マルクスの思想を形作った。つまりマルクスの思想はこういうユートピアや我々人間の願望がつかみ取った初めての思想というものであるという。この逆からのマルクスへの接近というテーマは泥沼のようでもあり、富士山の樹海のように曲がりくねっていて見通しが効かず、延々と語り終わることを知らない。たぶん迷う道へと通じているのかもしれない。人間の願望、夢、欲望そういうことの分析が長々と続く。いったいなんのためにと聞きたくなる内容でもある。つまり人間の欲動というものが、夢を作り、ユートピアを作り、理想を作りマルクスを作ったのである、ということだ。

この本を簡単に要約するとこういうことになるはずだ。

(間違っているようならどなたか教えてほしい。)

この著書に関連して

この本を読んでいると、しかし、彼のユダヤ・キリスト教思想というものがとぎれとぎれに見え隠れしているのではないかという感じがしてならない。というのは、「希望は恥に終わらない」(希望は失望に終わらない、という訳もある)というパウロのロマ書5,5にあるこの言葉と関連あるか、一脈通じている。この本の宣伝にも、昔見た記憶があるが、希望は挫折するか、というようなチラシがあったはずである。パウロの思想にも他にも似たような考え方がある。「目に見える希望は希望ではない。なぜなら現に見ていることを、どうして、なお、望む人がいるだろうか。私たちは忍耐してそれを待ち望むのである。」ロマ書8.24

このパウロの思想と似ているのは、「いまだ、ない」という彼特有の概念である。いまだないものを望むところに希望がある、かつユートピアもあるといっている。またこの「いまだ、ない」概念というのは力感がある。動的である。この時制、過去完了なのか、ギリシャ語に出てくる時制風である。これもヨーロッパ特有の表現であろう。

今もなおこの書は有益であり続けるのか

非常に簡単に説明をしたが、この本は今読んで有益かと言われれば、少し疑問もある。というのはやはり社会主義というのは、壮大な実験をした。そして大失敗に終わった。今まさにプーチンとEUが争いの渦中にあるが、燃え残した社会主義のカスがまだ燻ぶんでいるようでもある。北京オリンピックの最中の中国はどうかといえばこれは全くマルクスが提唱した社会主義とは言えない。社会主義とは言っているが、強権な開発独裁のような国家である。新しい冷戦も始まりそうな気配の中では、社会主義に希望を見出すことは可能であろうか。ブロッホが書いた時代にはソビエトは崩壊していなかった。まだ夢見ていた時代だ。

可能性としての社会主義に希望はあるのかないのか、はさらに今後の問題となる。持続可能社会とか脱炭素社会とか、気候変動問題などと言われて地球上の問題が目の前に迫りつつあるときに、経済的には地球規模で何らかの制限や監視が必要になり今までの成長一本やりの自由競争的資本主義をそのまま容認はできなくなる時代がやってくるだろう。地球の危機の時の、いまだない世界の構築というテーマとしては非常に重要かもしれない。ある意味柔らかいマルクス主義ともいえる。

しかし哲学者でマックス・ウェーバーとも親交のあった人であるというが、この本は壮大なパノラマのような知識を駆使して書かれている。この博識には頭が下がる、というより参る。またその問題意識は人間、人類にとって、希望の存在という絶対的に不可欠なものをテーマとしている。そういう人類に根本的なテーマを追求し語りつくせないくらいに語り、掘り下げているというのは非常に重要だ。こういうテーマについて書ける人は他にいるだろうか。そのくらい奥行きは深く幅は広い論調である。簡単に理解したとはとても言えない。再度、この本の最後まで読んだ時にはブログに載せたい。最後のほうはやはりマルクス主義のテーマになっている。

最後に

このマルクスとブロッホのユートピアと希望の問題というのは、ある意味宗教的なのである。キリスト教神学では救済史といっている。これとの関係もあるのか。マルクスにとって本当に宗教はアヘンであるのかという問題、実際ユダヤ教は一応宗教の形式の中にあり当然キリスト教もそうではあるが、実際聖書を手に取って読んでみるとわかるが、必ずしも安心立命というような世界のことは書かれていないのでありむしろ社会批判的な内容が圧倒している。特に旧約預言者は圧倒的に支配者への批判と一般の人間の罪、悪への批判に終始している。またイエスの言行録を書いた新約聖書は徹底して悪との戦いが中心となっている。特にイエスの最初の記事は悪霊との闘いからスタートしており最後はその悪そのものによって十字架にかかって死ぬのである。確かに人間の救済というものも書かれている。それだからアヘンなのか?むしろそれが彼の言うユートピアに対応するのではないのか。だからアヘンだと言われたものはむしろ違う意味のものなのだろうと考えられる。私としてはマルクスにしろブロッホにしろユダヤ人がこのユダヤ・キリスト教をアヘンとは絶対に思ってはいないはずだという確信がある。ある意味ユダヤ・キリスト教は救済宗教ではないのである。この本の中でもフォイエルバッハの宗教批判の話が出てくるが、ユダヤ人の考えた宗教批判とは実際どういうものであったかということを再度、さらに再度考察してみる必要を感じる。

寺尾誠訳「ルター時代のザクセン」について

「ルター時代のザクセン」宗教改革の社会.経済.文化史、K・ブラシュケ著、翻訳、解説、註、寺尾誠、ヨルダン社、1981

なぜこの本を読むのか

・私にとっては非常に関心の深い分野である。またマックス・ウェーバー以来論争の多い分野である。かつてはむつかしくあまりに専門的で、自分には面白くなくて読めなかった。

・慶応の寺尾誠さんが翻訳、私の師事した先生であるが、ゼミの卒業論文が書けなくて卒業できそうもなかった時、卒業してから書けと言われて4単位をもらった。やっと卒業した。このことを突然思い出して、冷や汗が出てきた。大学の入学、落第、卒業がいまだにトラウマだ。このトラウマが消えるわけでもないが、勉強しなおさなければと思う。そういう力が寺尾さんにはある。

・この寺尾さんが嬉しそうに、この著者と当時の東ドイツでの交流した時の事ことについて書いてある記事がある。ドイツに行かれた年が1977年とあるから、私はその時はすでに卒業していた。また、あとがきにもあるが、図書館で彼の本を発見した。三田の図書館の書庫とある。その点について彼は「当時、実践の長征と方法への迂回を遂げ、実証の畠へ飛び立とうとして模索していた私にとり、それは幸運の女神の贈り物であった」と書いてある。マルクス主義的実践だっただろうか、マルクスやウェーバーのような理論一辺倒的なところと実証(多様性)とのギャップに悩んでいたのだろうか。このブラシュケは地方史、実証主義的である所に寺尾さんの悩みに光が当てられたのかもしれない。確かにその前に書いている「価値の社会経済史」は理論、方法論である。それはそれで書いた後行き詰まったのか。「遂げた」と書いてあるところからすると行き詰まりではないだろう。理論は多くの事実を捨象する。そのことによる現実の多様性の理解がなくなる可能性もある。またそのことによって現実への厳しい緊張感と理解から離れていくのではないかという危惧だったのか。

また、そこには発行元の友人の当時ヨルダン社の山本さんの事にも触れていて、彼はゼミ8回生とある。また青年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、朱熹(12世紀のはじめ、朱子学創始者)の作、「偶成」と言われている、この詩を著者にドイツ語に翻訳してささげた。(この内容が書かれている記事は寺尾さん3周年記念の時もらったと思う。)

この本

やはり寺尾さんが訳したということが重要である。

この本の翻訳のいきさつ、彼との出会い、交友関係については、あとがきに詳しい。

彼の本はほとんどそうだが、あとがきが長くておもしろい。自分の言いたいことを存分に言っている。このあとがきは、ブラシュケという著者が当時の東ドイツにいたということもあり、彼の社会主義論、彼のキリスト教論、社会経済史の方法論、彼の思想的立場というものを感動的な筆致で紹介している。こんなに感情的な寺尾さんを見たことがないというくらいの内容である。書ききれない感情があふれ出している。熱いものがある。経済的にも貧しい東ドイツの小さな家での深く温かい真の交流がここにはあったのだ。ここだけ見ても寺尾さんという人は大変な学者であり、思想家であり文筆家であり、情熱家であることを感じる。(彼はパッション情熱とシュパヌンク緊張が必要だ、と口癖のように語っていた。)本当は泣いて書いたのかと思わせられる。泣く人ではないが。この内容については知りたい方はぜひ本を取って読んでほしい。「神の総体」という言葉に感じるものがあるだろう。

内容

「ルター時代」というのは1500年から1555年くらいまでのドイツのザクセン地方の歴史である。歴史的にみると非常に短い期間を扱う上にザクセンという一地方を扱っておりある意味の地方史である。社会経済史であり、専門家の本というよりは、一般向けの本ではあるがそれでもいったい誰が読むのかと考えれば、ルターという宗教改革者のいた時代とその生み出されてきた環境というものを知りたいと願うある種の専門家ではないだろうか。ましてや今読む人はほとんどいないだろう。今から40年前の本である。増刷を重ねているという話も聞かない。しかし隠れた逸品というしかないだろう。その解説も含めて。

内容についていえば、彼は古文書、教会などにある、を事細かに調べてその史実だけを頼りにザクセン史を書いたという。当時の都市別人口や農民の比率、さらに収入もある程度わかるようである。この詳細なデータというものがいまだに残っているということがものすごいことではあるが、イギリスのサスペンスなど見ると過去を調べるには教会に行けということがよく言われている。教会には多くの古文書が残っているようだ。現在は古文書館というところで一括して管理しているようだ。

彼の狙いはどういうところにあるのか

つまりルターが出現して、1517年秋ヴィッテンベルグ城の門に95か条のラテン語で書かれた定義条文から発したヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教改革というものがルターという個人の天才の力があったのでこのように大きな変化を呼び起こしたのか?それは本当か?という問題意識が一つある。スターリニズムはスターリンだけの問題だったのかという、あるいはナチズムはヒットラーの狂気がそうさせたということなのか、また現在のプーチンの思想が今回のウクライナ、クリミヤ危機を招いているのかというような事にも通じてくるある意味では現代的、現在的テーマでもある。社会経済史的にみると一個人の力だけとは言えない。彼じゃなくても誰かがやったということではないが、ザクセンという地方の持っている歴史的な特性がここまでの大きなプロジェクトにしたのだということではないか。これは歴史の解釈でもあり、史実の見方でもあり、常に問題にされるところでもある。彼は歴史の総体という言葉でこの個別史を見ていく。理論がないのではない、理論を奥深くしまっておいて史実の多様性に語らせるということなのである。もう一つは彼の認識の方法である、史実に語らせるという方法であるが、これが歴史とは何か、という理論的思想が奥に潜んでいる。(これについては寺尾さんが甘いとか批判をしている。あとがき参照)

ザクセンというのは鉱山業の発達した地域で彼は初期資本主義という言葉を使っている。鉄その他の金属などが採掘されている。それによって、高炉まで作られたようだ。この原料から金属加工という技術がのちのグーテンベルグまでつながる。このあたりから資本主義的思想というものが芽生えてきたということなのかもしれない。また城壁の中では市民が急成長を遂げ現物経済から貨幣流通の世界への変化を一番享受した。また農民戦争に見られる通り、貴族などの騎士的甲冑で身を固めた戦闘要員はもはやいらなくなった時代に入っている。そこでむしろ領域の統治的手腕が必要な時代になっていた。裁判の必要性からローマ法の導入や市民的教養の育成、記録文書の作成、計算業務、報告、命令業務などの必要から大学教育というものが要請されていた。さらにグーテンベルグが活版印刷を発明した。ただし、彼はルターの一時代前の人である。(1399年から1486年)ほとんど重なっていないが印刷技術の発展がこの新しい時代の要請にこたえたのである。またルターの95か条についてはラテン語で書かれたのだがあっという間に翻訳されドイツ語で2000部ほどすぐ売れたという。こういう事実から考えるに広範囲に読み書きができる人たちがいてこの種の印刷本を買い求めたのである。

ザクセン南東にあるボヘミヤにはフスの宗教改革があり、この影響も受けたトマス・ミュンツアー(ルターの影響を受けた神学者、牧師、農民戦争指導者、革命的思想の持主、ルターと同時代)が農民とともに農民戦争を起こした。チェコの神学者フルマートカは初期宗教革命といっている。(佐藤優の崇拝している方だ。)こういうことがあってのルターの存在であった。土地制度史、キリスト教会史、教育史、芸術史、建築史、農業技術史、鉱山技術史、文化史を駆使して叙述している。

彼の本の全体をまとめることはできないが、大体以上のような内容である。

終わりに

寺尾さんは今はもういないが彼の思想は残っている。古いとか新しいとかいう問題ではない。生き生きと生きて残っている。私自身会社に入った翌年、冬のボーナスを全部使ってけちけち旅行友の会に入り飛行場で往復切符をもらいドイツへ行ったことを思い出した。エルベ川を見たかった。またハンブルグやリューベックなどの商業都市を見たいとの気持ちに駆られてであった。冬の一週間であったか、10日あったか忘れた。初めての飛行機だった。

自分自身もそうだが、決着のつけられない問題が残っている。ウクライナ危機の問題も根が深い。ギリシャ正教の問題にもさかのぼる。今なお戦争をするのである。あのニューヨークを襲ったテロのような戦争が。人間の罪深い考え方は変わらないのか。2022年2月、戦争反対を胸に抱き、ロシアのウクライナへの侵攻、侵略をテレビで見、恐れおののきながら戦況を見守り、世界の動きを注視しつつ、深いところで関係する歴史的問題について書いた。この本を読める人はぜひ読んでほしい。

不思議なアルゼンチンの作家ボルヘス

J・L・ボルヘス著「七つの夜」野谷文昭訳2011年岩波文庫(原著1980年)

初めに

ボルヘスという人の本は全く読んでいない。この本は偶然かなり薄いので読み始めた。ノーベル賞をもらったのではないかという誤った記憶の元購入していた。ウイキペディアなど見ると賞はいろいろあるがノーベル文学賞ではないようだ。

1899年生まれ1986年没、享年86歳。またアルゼンチン国民、市立図書館補佐役(ペロン政権の時に失職する)。この市立図書館はブエノスアイレスの大通りとカルロス・カルボ通りの交差点近くということらしい、グーグルマップを見ると市中心からちょっとはずれにあるような図書館。

概略

この「七つの夜」は7回にわたる講演録である。神曲、悪夢、千一夜物語、仏教、詩について、カバラ、盲目について、と一夜ずつの講演となっている。ブエノスアイレスのコリセオ劇場で。彼は日本にも来たことがある。1979年。生まれつきの盲目ではないようだが、盲目でありながら世界の本という本を知っているというのは、耳の聞けなかったベートーベンの作曲のように不思議であるとともに天才的なものがあるのだろうと考えざるを得ない。自分でも記憶は優れていると感じているようだ。

どんな特徴があるのか

語り方が何か自分の可愛がっているものをなでながら何回も何回も繰り返して子供にでも語っているような雰囲気がある。また講演といっても全く堅苦しくはないのだが語られていることは結構むつかしいことを語っている。また結論があるのかないのか何をしゃべっているのかわからなくなることがある。講演という形式だから仕方ないのか、話が転々と移り変わっていく。かつ飛躍して飛んでいく。彼の思想には円環的なものが組み込まれていて出ていったところから同じところに戻ってくるような錯覚を楽しんでいるような所もある。

彼は基本的に文学者であり作家だ。その本が楽しければその本を読みなさいという。勉強のために読むような小説というのはなんとくだらないという。楽しいと思って読めなければ、将来読むことになるかもしれないので、今はおいておきなさい、という考えだ。講演の内容というものは簡単に言えば、そういう世界の名著である文学中の文学についての楽しみやその文学の考え方。さらに仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教にも言及しているがその中の種々の本についての言説、特に変わった言説に興味があるからかそういうものの説明が多い。また以前ここでも紹介したエルンスト・ブロッホとも共通するような夢、鏡、錯覚、迷路などが好みのようである。またヨーロッパ的教養を身に着けている。さらに自分はヨーロッパ人だとしている。

中身はどんな感じか

講演の内容をいちいち説明はできないが、まず初めの神曲については、これは世界の本の中の本であるといっている。これが第一話に来るのはうなづける。この本を読まないというのは楽しみを禁欲しているに等しいという。むつかしいことは置いて、この本の中に没頭しなさい。さわりのあたりについての話がありダンテの特徴を挙げている。

7つの講演を要約するのも大変なのでこの新曲のところだけを紹介しておこうと思う。

先に書いたように文学の頂点を極めているものとして彼は高い評価をしている。特にパオロとフランチェスカが不倫によってこの世では処刑される。そして地獄へ落とされた。しかしこの二人はいずれにせよ愛しあっている。我々は、と彼女は言う。しかしダンテは最愛のベアトリーチェの愛を得られないままである。ここにボルヘスはダンテの虚栄心を見るといっている。またダンテ自身は自分の運命をむごいと感じている、とも言っている。この辺の感じ方は本当に深く読み込んで作者のダンテの気持ちに深く潜入しているようである。そういう読みの深さは同時に我々も本当に深く読んでいないとわからないものだ。

最後に

そういう意味でどの講演も語られている本を深く読んでいるわけではないのでなかなか共感するところまではいかない。特に詩についての講演などは知らない詩人も多くついていけないところもある。

最後には自分の盲目について語るのである。どこをとっても味わい深い。全体としては世界文学の文学入門となるだろう。こういう読み方までするとさらに文学というものが本当に面白く感じられそうである。