詩篇123は非常に短い詩だ。

この詩は非常に短い。

しかし、ほかの詩篇とは違うリアリティーがある。
「僕がその主人の手に目を注ぎ、はしためがその主婦の手に目を注ぐように」我らの神に目を注ぐとある。
どういう主人かどういう主婦か、わからないが仕えてるものからすればその一挙手一投足が不安を作り、苦しみを作り、悲痛を作り出すのである。だからこそすべての感覚を動員してじっと手を見ているのである。物凄い集中力である。この僕と婢女の立場に身をおいてこの作者は書いている。その沈んだ気持ち、そして低い場所が信仰のためにはどうしても必要だ。そういう所、状況にいないと信仰は生まれない。神は貧しいものの神なのである。この世界の価値観とは全く違う価値観を神が持っている。出来るものの神ではなく婢女の神なのだ。主人の神ではなく僕の神だ。実にその通りと思う。

我が民を慰めよ、イザヤ書40章

クラウス・ヴェスターマンのATD第二イザヤ書注解p50に書いてある。

「イスラエルは、神がその民に許しを与え、回復を決定されたという事をイスラエルに告げるために、この時民に遣わされる使者の言葉によって慰められるのである。この慰めの言葉は全権をもって語られる。「慰めよ」の呼びかけが「道を開け」という呼びかけに進むからであり、また、嘆きを変える使者の言葉に低きものを高め、権力あるもの達を覆す歴史の主の、歴史に介入される行為が対応しているからである。」

だから我々はこう思う。権力あるものを引きずり落とすことはまだできていないが、地上への主の介入について予言されているという事が書かれている。近い将来か、また遠い将来か必ず高いものが低くされ低いものが持ち上げられる時が歴史の中で来ることを、待ち望みたいと思う。そこに希望がある。

(バハールの涙、という映画を見て、クルド人女性兵士の物語http://bahar-movie.com/)

ベルは伏し、ネボはかがみの意味は分かるだろうか。?

「ベルは臥し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。
あなたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。

彼らはかがみ、、彼らはともに臥し
重荷となった者を救う事が出来ず、
かえって、自分は囚われていく。」イザヤ書46章1-2

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