繆斌工作という和平工作を知っているだろうか?

銘のない墓標、陳舜臣、中公文庫、1991,9、初出1969,1講談社

この文庫に入っている最初の小説である。(3作品が入っている)

小説の背景となる歴史的な人物と事件

この小説のテーマはミョウヒン繆斌という人物の話である。彼は、今では知っている人はほとんどいない。しかし、実際にあった繆斌工作という有名な事件の首謀者である。昭和20年はじめ南京汪兆銘政府の要人、繆斌が日中戦争の和平工作を行い日本はこの密使を相手にせずという外務大臣の重光葵の反対によって退けられてその工作が失敗した事件である。汪兆銘政権のほとんどが漢奸としてその後国民党政府により銃殺刑となったが、この繆斌は一番早く死刑とされた人物である。裁判までの間の監獄では最大の好待遇であったようだ。しかし裁判がすぐ行われ、即処刑となり、そのこと自体何かの問題を隠すためだったのではないかと憶測を呼んだ。

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中国人の青春

楊逸(ヤンイー)「時が滲む朝」、文芸春秋、2010年発行、(初出2008、文学界)

天安門事件のころに大学生であった主人公が、その後大学を退学させられて、日本へ来る。その天安門事件関係の人々の動向と中国人の日本での生活の一端を垣間見せてくれる。彼らの政治信条や中国にかける思いや、その前の文革からの影響など非常に短い小説の中にうまく取り入れて書かれており分かりやすい。内容は単純で分かりやすいが中国人の、多分、複雑な気持ちを言外に伝えている作品で芥川賞を受賞した作品である。

著者はどういう人か

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自然権、自然法の重要性

岩波文庫、ホッブス著、ビヒモス、翻訳山田園子、2014年発売

概略

イギリスの1630年あたりから、1660年あたりまでの歴史を中心として、そのイギリスの内戦状態の原因について分析した本である。王が処刑されてから王政復古までの間の激戦の状況である。最後はクロンウェルまで登場する。なぜこういう事が起こったかという事のホッブス流の分析である。若い人とホッブスらしき人との二人の対話で話が進んでいく。若い人が質問してホッブスらしき人が答える、というのが連綿と続く。

このほんを読む人はどんな人だろう。ホッブスだからと言って読むのか、イギリス史の一環として読むのか、いろんな読み方があるとはいえ、歴史の一ページの話を事細かに読んでどうする、というのが、この本を手にした時の第一印象である。

ある意味これも古典である。とっつきにくい、しかし味わい深い。そう思える箇所が沢山出てくる。

ホッブスは今の言葉でいえば体制派である。王側の見方をしているのである。民主主義というものを知っているようだが、それが素晴らしいとは全然思っていない。彼の理論である自然状態では人間は何をするかわからない、だからある支配者に合意の上で、規制=法をゆだねて自然状態の危機を和らげようとする考え方の持ち主である。弱肉強食であり人は他人に対して狼であるという。しかしそのホッブス流の考え方をまとめたリバイアサンに通じるのであるが、まだこの本ではあまり理論化されてはいないようにも感じる。つまりこの内戦をみて彼の政治的理論が作られてきたと思っていいのかもしれない。

背景にあるイギリスの学問の先進性

この本を読むとびっくりすることがある。民主主義、共和主義、専制主義などの政治形態についての知識が豊富にあること。また主権概念、国家、国、国民というものを定義しているわけではないがその種の学問の裏付けがすでにあったであろうと推定される。特に国民についてはマルチチュードという、ネグリが使っている言葉が出てきたのにはびっくりである。近代思想の走りであることは間違いがない。

話を簡単にすると

この内戦の主役は、王、貴族、国教会、カソリックの教皇、議会(貴族院と庶民院)、長老派の牧師たち、更に庶民、これにアイルランド、スコットランドなどの諸国が加わる。特にこの時期は、議会派が非常に強くなっていて王と戦えるような権力を少しづつ掌握していく。その議会派の論理をホッブスは徹底して非難する。それは論理的ではないという事と法の精神に合致しないまた国家の安全に寄与しない、平和構築的ではない、ということ。嘘がまかり通る。今でいう大衆政治が執り行われたという。

特に彼は、義という言葉、ライト、ジャスティス特に正義と訳されるジャスティスをないがしろにしている、と主張する。これはヨーロッパ特有な問題である。教会法これは庶民、王にとっても王権神授説なるものもあったくらいで、聖書を教える、教皇や主教は神の霊を受けている神の代理人と考えられたくらいなのである意味抑圧的に重要な法であった。。そして人々もそう考えた。だから教会の権威(支配者型宗教=大塚久雄)は強烈であった。そこに長老派というプロテスタンティズムが登場して、これは王は許されざる存在であると吹聴しまくり扇動した。その意見が庶民院に反映され、思想と法の混乱が起こってきた。つまり世俗法と宗教法がぶつかり合っているのである。この混乱が内戦に拍車をかけた。そして議会派の宣伝や誇大な嘘、こじつけの論理、誤った法論理によって王や主教や貴族や関係する人々が有無を言わさず処刑されてきた。あのロンドン塔で。

結論的に

ホッブスは王に国の内部の自然状態の危機を乗り越えるための支配権を合意の上に譲渡することによって平和と国家主権を確保するのだという論理である。そういう思想なのでこの本を読むとホッブスは保守派なんだと感じるようになるだろう。

しかしよく読むとこれは王の問題ではなくて、優先されるべき自然法、自然権、平和、国家主権の問題であり、極めて現代的な問題の端緒を切り開いている感じがする。

この本を全面的に理解したとは当然言えないのではあるが、ホッブスはこの王党派と会議派との戦いからこの自然状態、自然権、自然法というものを理解して思想までにしたのではないか。

古典の価値というのは決して安直な分かりやすさではない。分かりにくい、一見とっつきにくいというところに特徴がある。なぜか、ある概念を手に入れそうな所にいるからだ。分かりやすい説明ができないのである。

ついでに、

この表題のビヒモス、という言葉知っているだろうか。

これはヘブル語のベヘモスから由来している。これはヘブル語では動物である。一般的には動物という意味がある。しかし旧約聖書では創世記、ヨブ記に出てくる。リバイアサンは水の怪獣である。ベヘモスは陸の怪獣である。カールシュミットは「陸と海と」を書いている。旧約聖書は天地創造の前に混乱と混とんがあったことを前提にしており、その混とんの原因であるのはこの怪獣である。混沌を制覇した神がヤハウェなのである。これは旧約聖書では常識となっているようである。イザヤ書などにその痕跡であるものが出てくる。

新自由主義という民営化の思想

新自由主義、その歴史的展開と現在、デヴィット・ハーヴェイ、監訳渡辺治、作品社、2007年、

デビィット・ハーヴェイは1935年生まれ、経済地理学者、原著2005年発行(ということは著者70歳の時の作品)

この本は、新自由主義という、世界先進国を覆っている考え方の基本を分析してみたものである。最後にどういう対抗軸があるのか、解決策はあるのかというところはちょっとよわい部分であるものの、新自由主義に関しての特に経済に関する本格的な分析であることには間違いがない。(前回のブログで取り上げた、森政稔氏”戦後「社会科学」の思想”の新自由主義と取り上げ方が多少違うが基本的な見方は同じである。)

本の内容

まず、この本の出発点は、イギリスのサッチャーの政策から始まっている。確かにここにすべての新自由主義的考え方が出ていると言える。一つは国営の産業部門を民営化するという難問についてはサッチャーは鉄の女として実現した。その後に続く先進国はこれを真似できることになった。日本でも同様に、国鉄の民営化、郵政の民営化と続いたのである。これを可能としたのは、イギリスの改革の実現例があるので日本でも可能となった。これはその他の先進国も同様のことをせざるを得ない状況となり多くの国で民営化が叫ばれ実現していった。民営化すれば効率化できるという。これは世界的にそういう方向に動いた。この民営化の発想は、当時のイギリスの強い労働組合の、日本も同様だが、問題もあり、政府財政を長年苦しめてきたものであった。それはまたイギリス病ともいわれ産業の衰退、景気の後退が長い間続いていたのである。その後世界的には水道、年金、地方自治体、さらには一部の軍隊などの政府関連機関でしかできないと言われているものを民営化する動きが加速化されている。この動向が新自由主義的と言われる。これは、分かりやすく簡単に言えば、自己責任化である。自分のことは自分で責任を持てという事だ。貧しい人は貧しくなったを責任を取れ。失敗した人は失敗したという責任は事故にあるのだという。政府の支援は出来ません。自分で解決してくれという事だ。日本ではこのことが言われたのは危険地域、紛争地域にいきそこのテロリストにとらわれた時に盛んに自己責任だという事が言われた。私が見るところによると世界的にこの発想はますます顕著になっているように見える。つまり我々は自由なのだから自由の代償としての失敗や貧困は自己責任である、というものである。一方で自由が強調され、負け組を自己責任化する。これが支配層、政府エリートの発想の原点でありまた、これが国民的に理解されやすい同意を形成しているわけである。だから社会的に保護されている人たちを、ヘイトスピーチではないが、彼らが極端に嫌う現象もこのことから出てきているように思える。軍事主義も戦争で負けたら自己責任なのだ、という発想から軍事防衛的、憲法改正的な発想に自然にたどり着く。これは右翼だからという事ではない。安倍政権も小泉政権の延長上にしかないのである。そういう新自由主義的経済の運営は自動的に行われていくという事になる。

特色ある中国的新自由主義

この本のなかで一番精彩のあるのは、中国に関しての個所である。それ以外のところについては若干今読むと古いところもあるが中国に関して、資本主義的流れを新自由主義的ととらえられるような分析となっている。この個所はジョヴァンニ・アリギの「北京のアダム・スミス」での分析と類似しているともいえる。

彼のあげている一番新自由主義的と言えるのは、農業人民公社から郷鎮企業の創出であろう。これは明らかに集団責任制から個人責任制の導入である。それにより成功した郷鎮企業が続出したのである。(1995年には1億2800万人の雇用)こうした民営企業の成功が中国を引っ張っていった。それについてい行ったのが国有企業である。しかしその後の中国ではこの国有企業は相当な重荷となっているようである。特に銀行。これらの国有企業が今後どうなっていくか。新自由主義の一番の特徴である、個人責任制によって爆発的に中国は成長してきた。その間、解放特区や沿岸開解放都市などの特殊な政策を通じて中国の経済を成功に導いてきたのである。一方で天安門的な香港的な問題は一層強まっているが、この種の問題については暴力的、抑圧的、管理社会的である。

但し、中国の賢明さはこの経済発展という事に関してはアジアの他の小国以上に日本からも学んだという。これだけの外資を導入しながら、外国資本が引き上げた時の凄惨な状況は生まれなかった。またバブルだと言われながらそれほどの大きなショックはなかった。この原因としては、ハーヴェイの本には書かれていないが中国的賢さが随所に出たのではないだろうか。例えば減税優遇策一つとっても、その土地やその事業から逃げ出すことはできないのである。それは大連で東芝がテレビ事業をやめると宣言した時に事業継続期間の土地代、税金を優遇された分をさかのぼって払っていけというような厳しい政策があった。このため海外事業主は相当な期間を中国で仕事をせざるを得ない状況に置かれてしまうのである。また資本も全部は持って帰れない。利益もそうであるが、その金は中国で使う事しかできない。だからある日本の企業は、中国で大きな利益を上げていても現実のキャッシュは増えないというようなことがある。その巧みさには感心させられる。

そういう意味では政府の指導の徹底さというものが日本やシンガポールから学んでいったと思われる。ハーヴェイは一方で経済覇権を狙い管理国家化しているという事を新自由主義的と言っている。

結論的に

ある意味新自由主義という言葉が今ではあまりに広い風呂敷になってしまったのである。日本とアメリカの共通項は分かるが違いがはっきりしない、中国とアメリカは経済覇権的であるがどのような構造的な違いがあるのか、政策立案過程における類似と違いなどが今後はっきりさせられる必要もある。またそのご各先進国はどのような発展をしていけるのだろうか。アリギの本ではないが経済的覇権国が世界を牛耳ってしまうのか。アメリカは世界の軍事から撤退しそうな傾向も見せている。また民営化のその後はどうなっていくのか、医療や水道、高速道路、軍事などもどんなことになっていくのか。但し日本の郵政の民営化でゆうちょ銀行、かんぽ生命ができたが問題が生じた。しかしその社長は政府から派遣されるのである。こういう政府から民間へといっても政府系が指揮し指導していくのには本当の効率化があるのか。そういう例は枚挙にいとまがないので相変わらず無駄な失敗を繰り返しているようだ。だれが責任を取るのか。

森政稔氏(戦後「社会科学」の思想)が言ってる新自由主義もこのハーヴェイの論調を踏まえてのものである。先進国共通の思想は今後どうなっていくのか知りたいところである。

また、新自由主義という言葉が出てきたら、このことだと考えればよいのである

吉本隆明を知ってるだろうか

吉本隆明、戦後史詩論、大和書房、1978年9月発行

1、吉本隆明を知っているだろうか。

二女は吉本ばなな、作家、長女は漫画家。娘の有名さで親父も晩年忘れられたころには再度有名になった可能性もある。

ウイキペディアなど見ると、60年安保の時に活躍した。また今の東工大を卒業後東洋インキの青砥工場に就職、その後は特許事務所などに勤務していた。

60年安保の時に品川駅でデモ警察に捕まる。そのころ丸山真男批判などを書き丸山と大論争となる。知識人づらしている人は信用できないとか、しかし藤田省三に師事したとあるから、その藤田の師匠の方を批判したということになる。この丸山批判はその後の東大紛争でもその残響がかなりあったと思われる。詳しいことは不明であるが。

2、なぜこの本を読むのか

吉本隆明とは我々の学生時代には左翼的な超有名な評論家であった。学生運動の思想的な支柱ともなっていたようにも思われるが、私はこの人の本をほとんど読んでいない。今回のコロナ騒ぎの中で倉庫整理をしているときに3冊ほどの吉本の本がでてきた。吉本という人は何を言っていたのか、若いころの失われた記憶を取り戻そうと、彼の本をもう一度読んでみようという気になった。本の中に書泉ブックマート、78年10月1日1200円という領収書(多分お茶の水にある書泉だろう)がある。学生時代というより社会人になりたての時期に買ったものだった。まだ学生意識が抜けなかったのか。一番とっつきのいい本という事でこの本を選ぶ。そのほかに共同幻想論や文学論などがある。

3、内容

1、戦後史詩論、2、戦後史の体験、3、修辞的な現在

いろいろな題名はあるものの戦後活躍している詩人を対象として論じている。というか戦争をくぐってきた世代、戦中世代がどのようにこの大戦を経験し、感じ、自分として態度決定はどうだったのかというような、戦争を通過し経過したことが詩にどのような影響を与え、どのような詩になっていっているのか。これを、中原中也や立原道造その他の戦前の詩とどのように違っているのか。基本的にはそのような内容である。

あとがきには、この戦後の詩というものはなかなか好きになれないという。好きになれないというものを書くというのも自分としては問題あるだろうと改めて考え直して、もたもたしながら書いたというようなことが書かれている。その言葉のわかりにくさ、文体、流れ、そういうわかりにくい、なかなか好きになれないような詩をある程度どのように理解できるかを彼なりの原則で切り分けている。

「戦後詩を背後から支えた動因は、いくつか考えられる。その一つは戦後詩人たちが社会的な体験において、もっとも戦争の前面に立たされた世代だったという事実である。」

「生野幸吉や秋谷豊の詩の世界は、八木重吉や中原中也や立原道造の詩の世界に比べてはるかに不安定であり、またいいかえれば、自然なものへの傾斜や依存の度合いは少なくなってきている。これを戦後的な共通意識でとらえれば、日本的な心情の土台をなしている自然的な秩序に対する戦いを、根源的な心情の世界によって行おうとしているところに、これらの詩人たちの独特の場所があるという事ができる。」p82

4、この本をどう思うか

論争好きな人であった吉本隆明の詩の解説と詩の歴史論である。独特なのは彼の分析が、詩人の社会性(どこに生まれ、どのような生活をし、どんな職業にいたか、あるいは地域性)などが当然ながら詩作には影響するが、そこを最初は非常に重視していたが、後半に入るとそういう問題的視点はなくなり詩そのものへ入っていくような分析となっていく。しかし、私にもこの現代史詩といってよいか戦後詩は現代音楽と同様理解されることを拒否する精神がある。理解されることを拒否というより今までの自己同一的音楽との決別という意志がある。絵画の抽象画でも同様である。抽象的アートと一緒である。しかし彼はその奥襞に入って理解しようとしていく。そうするとわかってくることがあり見えてくる。そういう発見の本でもある。遊びのような言葉、言葉の可能性というと格好いいかもしれないが、その歴史的に負わされてきた言葉の持つ印象や付きまとう感情などを振りほどき、乗り越えようとするような言葉の使い方をしているという事に気が付くのである。これが戦前の詩人にはないところの言葉の使い方である。これは確かに大きな発見であろう。歴史の重層の重みに沈んでいる言葉を開放していくような言葉の使い方である。

例えば一例であるが

 吉増剛造(「風船」)の詩から

 「ろっ骨を握って唖然としている俺たちの顔を」「俺たちははらわたに手を入れて、盲腸を引きずり出しゆっくりかみしめる」「魂というチッポケな奴を延髄のあたりから取り出してアンドロメダの方へ投げつける。」等々。誰もそれを見たこともやったこともないことだ。だからと言って≪不可能≫なことの比喩ではない。「間違いなく俺たちは続ける」というのが一つのモチーフであるように、修辞的な意味の強い意志的な可能と概念の実態の≪不可能≫を同時に提出することが行われている。この詩の不安定さはもちろん「おれたち」の位置の任意性からきている。言い換えればこの詩人を動かす衝動の不確かさから来ている。

・・・・というような解釈が加えられる。相当に吉本自身に引き付けての解釈のようでもあるが、説得力はある。但し使われている言葉を誤解しないようにしなければならない。こういう言葉の使い方、理解の仕方が力あるように見える。

4、戦後詩から現代詩へ

現代詩というのはそういう戦前にあったような自分の気持ちを率直に歌えるよう言葉を使ってはいない。その言葉の歴史とか、その言葉の使われ方の反省を通して、言葉の意味を逆転させ、転換させるような、現象学的にいえば現象学的還元を通している文体といっていいのではないか。そのような理知的な作業を施しているため難解であるが、逆にクイズ解きのような面白さも感じられる。詠嘆を隠して、自己主張を隠して言葉を操るのである。あるところでは吉本は言葉を補ってみて初めて分かるような詩の分析もしている。予備校の現代文の先生のように。現代詩は意思の、精神の直接性は見受けられない。そこまで詩文が高度化されている。成功しているかどうかは別でもあり、しかし多くの実験が必要なのである。日本語にとっても。そういうことを感じさせる彼の本である。自分で一人の詩を読んでみたい気にさせられる。このわかりにくい詩と向き合い、自分で解釈するという事が重要だ。これこそ現代である。

(旧全集の5巻に詩とは何かという文章がある。ここは折口信夫の呪術論、憑依論からスタートしている。)

追伸

吉本流は一つ思い当たるところがある。何かしら田舎臭いところが文章にある、と感じる。それは山形の工業高校に通っていたという事なのか。彼はそうはいっていないが民俗学的な成果をたくさん使っているような気がする。そういう土臭さ、泥臭さ、田舎臭さが彼の文体には付きまとっている。そういうところが、日本の若い人たちに知らず知らず享けてきたのではないか。根本は柳田国男やその他の民俗学的な問題意識に支えられているのはないか、と今はひそかに思える

トルストイの民話の面白さ

「人は何で生きるか」トルストイ民話集、中村白葉訳、岩波文庫、1932年第一刷、1985年に50刷というからかなりの発行部数といってよいだろう。

今日は閑話休題、である。トルストイの本にはいろんな民話風の話が多い。という事は彼は民話というものを聞き集めていたのか?これには解説がついていた。彼のところには民話の語り手が居候していたようで(彼が呼んだのかもしれない、その辺りは詳しくわからず)ある。彼は民衆に分かりやすく平易でありかつ簡素単純でありそれが普遍的である、また生きていくために役に立つという芸術論がある。そのためにその種の民話を集めていたのかもしれない。またこの民話といってもその語られたままではないそうで、岩波文庫50ページほどの物語に一年もかけて修正、推敲したものだそうである。

この物語の主題は、

人間が生きるために与えられているもの、与えられていないものはなにかという、ちょっとクイズのような話である。コロナ禍の中では清新な気を与えてくれる本である。

簡単にその物語の流れを追うと、貧しいロシアの靴職人が主人公。彼は家もなく財産などもなく住むところを間借りしている。奥さんと子供の明日のパンにさえ事欠くくらいの貧しさである。

この人が雪の中で、行きずりの倒れた若い男を助けることによって後に起こったいろいろな事件を通して、人は何によって生きているか、生きていけるのか、(表題はこういうように変更したほうが真実に近いのではないか)という事を平明な民話にのせて語ったものといえる。

中味ははぜひ簡単なので読んでほしい。いかにも民話的である。日本の鶴の恩返しや金の斧と鉄の斧の話のようなものであるがやはりそこはトルストイである。うまい。

行きずりの若い男の存在がこの物語の決め手となっている。ある意味、彼の芸術論のように簡素、単純しかし普遍的なテーマを扱っているさらに言えば深い、面白い、という事がいえる。

民話とロシア人

彼のこのような作品がどれだけ、このロシア人の心をつかんだか。下斗米信男氏(法政大学教授)の「神と革命」(筑摩選書2017年)というロシア革命論によると、ロシア革命はギリシャ正教の反対派である異端古儀式派が中核的存在であったという今までにないロシア革命論を発表している。トルストイ派の影響もかなりあったようだ。トルストイの提唱実践していた集団農場制についてもレーニンが学んだ。またトルストイ派の兵役拒否についてもレーニンは理解を示した。要するに民衆の中にあるこのキリスト教異端派といわれる、トルストイ派、古儀式派、鞭身派(ドストエフスキーの小説にたびたび出てくる)、分離派(これはドストエフスキーの罪と罰のラスコーリニコフがそうだ。名前が分離という意味。)ドーホボール教徒など、さらに多様な異端宗派がいるが、ある意味ロシア革命でさえこのような民俗的、土俗的なものを力として、成立している。(恐るべき多様性、土俗性、異端性である。)そういうロシア民衆の気持ちがこの民話の伝承者となり物語に結晶している。

(このロシア革命論の古儀式派問題は冷戦以後自由化されたロシアの学的研究の成果である。)

参考

こうした物語は、彼の「文読む月日」(上下、北御門二郎訳、ちくま文庫)にもたくさん出てくる。またこの翻訳者の北御門氏はトルストイの影響を受け、兵役拒否をしたので有名、その後トルストイの翻訳をいろいろ出している。

他人の存在を考える、哲学

 

デカルト的省察、エドムンド・フッサール、翻訳浜渦辰二、岩波文庫、2001年(原著1931年パリ)

この本をなぜ読むか

現象学という哲学のためには避けて通ることのできない分野である、ということと、ハイデッガーの先生であった、またその後は(ハイデッガーと喧嘩別れしたようだが)ハイデッガー経由かJ・P・サルトルやまたその他世界の哲学者(今は日本でも有名なガブリエル・マルセルやレヴィナスなど)に影響を与えた学者の本であるという事。この人の本はみすずから出ている論理学なども持っているが、読む気力は湧かない。与えられた能力で読めるぎりぎりの本がこの「デカルト的省察」である。というかこの題名からして読めそうな雰囲気をたたえていた。更に岩波文庫である。この本を一般の人が読む必要があるのか。カントの純粋理性批判は岩波文庫で50刷を超えているということだが、まさに、このフッサールの本は教養?のためとしかいえないが、この年になってこのような本を読むことは読力の挑戦でもある。どこまで理解可能か、ダメなら低山趣味でもいいという事にしないとダメだ。

(なお、中島義道著「カントの読み方」ちくま新書、では4つの読み方の心構えをしている。

①分からないところをわかったと思わないこと②絶えずこういう事ではないかと仮説を立てる。③仮説を立てたことでほかの個所も読めるのか確認する。④常識を大切にする、変だと思ったら高級と思わないこと。≪本文を多少改変≫・・・とある。また読み解く秘訣はないとある。時間をかけて理解していくしかない。・・・それはその通り。)

難しい用語が多い

この本にはむつかしい用語がたくさん使われている。超越論的、超越論的現象学、判断停止(エポケー)超越論的還元、ノエマ、ノエシス、間主観性、フレムト、指向性などなど。しかしこれはカントの本よりはやさしいと言っていいだろう。

内容

基本的にはデカルトの「われ思うゆえにわれあり」という限りなく疑う事の出来ない大前提として思う我があるという事から考えるすべての出発点にしたいという、思想がありこのデカルトのこの有名な句が近代思想の始まりであると言われてもいるのであるが、フッサールはこの考え方を活かし批判しつつ自分の超越論的現象学に結び付けていく。

「我」だけから「他我」へ

中島義道氏のいう通り分かったつもりにはならないが、私なりの曲解、誤読をあえて承知で言えば、デカルトの言う「我」というエゴを明確にしたうえで、さらに彼は「他我」という言葉によって他人というものの存在を明らかにしたと言える。またこの「我」と「他我」との関係を間主観性というがその関係についても明確にした。

デカルトまでの時代は彼の意図とは関係なく個人という自分を発見したのである。個人というのは私という個人である。それもヨーロッパにいる個人である私だ。他人は発見されていない。このデカルトの時点では他人は存在しない。自分だけが世界の中心なのである。このフッサールによって他人が新たに見えてきたのである。他人も世界の中心である。他人の存在というものが明確になった。このためには長い時間がかかった。

この本の構成

この本は第一省察から第五省察まであり、前半はこの個人の我の解明である。超越論的な還元を施して、私の「我=エゴ」の明らかな明証性の理解と後半は他人の発見に費やされている。これでサルトルが他人のまなざしという言葉を言った意味がやっと分かる。

フッサールの現象学

認識というのは、フッサールによればカメラのようなものである。レーザーを当てて距離を測距してピントを合わせるあのカメラである。自分はカメラから対象を覗いている。しかしそこに映っている像は光とレーザーで反射して戻ってきたものを見ているのである。またカメラと対象があって光が媒介して、自分の網膜に映像を作っているという構造全体を想定するのは還元作用というのである。(然しこのカメラモデルは間違っているという人もいるので私だけの理解としては分かりやすい)だからこの時点では自分はいるのだが対象があるだけで他人の存在はないのである。この他人の存在のことを「我」と異なるもの,「他我」と呼ぶ。まだこの時点では彼は世界の中心でもない。単に対象となっているだけだ。その対象が、自分と同様に世界の中心として立っていることを認識できるのは最後の最後になって「共現前」という言葉が出てからである。モナド的「共現前」という孤立した「我」と「他我」が共に存在している、という状態への認識に至るのである。

他人の存在意識への長い道のり

こんな簡単なことが長く書かれているのは、「我」や「他我」の前提となっている所属している共同体や文化や言語などや装飾のようにその本人にまとわれているもの(名前とか役割、父とか母とか女とか)を剥いで行く作業があるからである。またこの「共現前」というところまで来るのには長い工程があって、この「我」と「他我」の対になるものが互いの存在を認識するとはどういう事かという事について、「他我」の「経験」という需要語句を使いながら、こういっている。

「対になるものが同時にしかも際立てられて意識されるや否や、直ちに発生的に現れる。もっと詳しく言えば、対象的な意味が交互に生き生きと呼び覚ましあう事、交互に押しかぶせながら覆いあう事である。」同文庫p202この表現、哲学的ではない言葉使いが面白いのではないか。

結論的に

この第三者である自分以外の存在というものを認識できるかどうか、という事は非常に重要である。というのは、我々人間にとって向かいあう存在が世界の中心であり、その人が自分を中心にすべての世界を見ているとは普通では到底思えないことである。いるとかあるということは感じている。しかし私が世界の主人公である如く、その人が世界の主人公であるというようには考えない。それは会社の上司や部下であったり、兄弟だったり、親せきだったりと自分との「関係」だけはあるが存在認識に至らない。この本はこの「我」と「他我」の「断絶」と「共にある関係」の深い謎に迫ったと言っていいのではないか。しかし実際のところ解決はされていないのではないか。哲学の限界を見る思いと言ったら失礼だろうか。謎に迫ろうとして深追いしただけという事かもしれない。それはたぶんハイデッガーにも言えるかもしれない。

共同幻想論を今読む

吉本隆明、共同幻想論、吉本隆明全著作集11、勁草書房、1972年(初出1966年雑誌文芸、単行本としては1967年河出書房新社発行)

この本をなぜ読むか

知り合いからぜひこの本を読んでくれという依頼もある。また学生時代超人気のあった人の代表作でもある。然し私は、この本を読んでいない。というか学生時代か卒業してからか買った本であることは間違いがないが、少し手にして、興味なく読み捨てられていた、というところである。多少最初の方に棒線がひかれているようなところもあり、少し読んだ形跡はある。

この本の意義

①共同幻想というのは、どこかで、彼が書いているが、国家がなぜ成立しているのかという秘密を探るための必須の概念である。また日本の国家を対象としている。マルクス主義の吉本隆明からすれば、マルクス主義に異を唱えているような論文である。つまり経済という下部構造が意識を決定する、という教条マルクス主義の理解からすれば、上部構造である文化の解明に幻想という概念を使って国家成立の構造の秘密を探ろうというのは正統派ではないだろう。むしろ異端であり、反教条主義である。

②また、現在この本を読む意味は本当にあるか。つまりマルクス主義がソ連崩壊とともにその神話が崩れてしまった現在、つまり冷戦が終結した状況では、教条マルクス主義の問題はもろくも、また当然であるが消えてしまったため、教条マルクス主義に異を唱えることも終結したのである。逆にいえばマルクス研究は今や自由度を増しているので、反教条マルクス主義などというのは、相手がいない状態となっている。だから、吉本隆明は先見の明があったと言える。これは間違いのないところだろう。1970年代にこういうことを言える人物はあまりいないのであるから。

③当時の学生運動の人たちには非常に人気があったことは間違いがない。左翼シンパ的な人たちにも人気があった。なぜか、これは大学での授業に心底嫌になった人たちにはある意味救済する力があったのではないか。大学の学問が最初授業を受けるとその学問の意味の説明なく非常に狭い専門分野にこだわった授業が行われる。数学とか語学とかはいいのであるが、その他の学問と称する授業ははっきり言って何のために勉強するの?という疑問がわきおこる。今もなおそうであるが、先生たちは自分の専門分野にこだわりその狭い世界で語りだす。それが学生たちを学問への興味を失わせていくのである。1970年代の学生運動が消えていく頃、専門馬鹿という言葉から学際という言葉が使われ始めた。学際が必要だと。多少その専門性の問題が反省されたのではないか。然し学際問題も成功していることもないだろう。そのうちこの学際的という用語はなくなってきている。当時の、大げさに言えば若い青年は人生の意義、社会でどのように意義ある生活ができるかを知りに来ているのである。意義ある人間はどのように社会を理解しどのような行動をとる必要があるのか、という疑問である。それがゆえに学問をしようとしているのである。この問題に答えられないために学生運動は全国に広がった。当時の時代的風潮もあった。東大では無給医の問題、院生の無償労働など、ウェーバーのロシア革命論を訳した林道義は、この問題をあとがきに書いている。学生運動も起こりうる、と。

この本の内容

この本はそういう意味では、まさに自分の置かれている状況をよく分析して知り、自分の行動を主体的に起こすべきであるという観点によって書かかれてと言えると思う。世間の言っている嘘を見破り、本来の認識はどこにあるべきか、どういう欺瞞が世界の認識の中にはあるのか、という強い主張のある論文だ。

①二つの軸があって、柳田国男と古事記である。この、特に柳田国男の遠野物語をフロイトの社会心理学的理解によって分析しているといってよいだろう。この柳田という人と吉本は相性がいいと思う。多分吉本は彼の民俗学から多大な影響を受けていると思われる。書いてはいないが。フロイトの影響の方が大きいという事は自他ともに認めているようだ。

民俗学は地方に伝わる民話や行事からその行われている意味を解明する学問である。なぜ巫女がいるのか、なぜ巫女はそのような宗教行事を行うのか、特に古い民話や古い行事ほど価値を持っているようにも思える。であるからこの学問というのは天皇の行事は一番興味の対象となってきたのである。

②共同幻想という言葉は意外に魅力ある言葉であって、本来的には共同の意識といってよいはずである。国家形成の原初における共同の意識とは何か、というテーマである。中味はある意味の不合理な世界、つまり民俗学的な世界を対象化してみると、共同の意識の発生という事から国家成立の秘密がわかるのではないか、という事である。本来的にはこれがわかってくると当時の日本で何が必要なのか、革命なのか改革なのか、何を良くしなければならないのかという事が見えてくるという事だ。経済革命なのか文化革命なのか?そういう戦略というものは描けるのか?相当な実践を意識して書かれている。当時の学生、青年たちにとって幻想という言葉は魅力があった(特に田舎、地方から都会へ来た学生には)。せっかく入った大学も幻想かもしれないと考え直した人も多かったであろう。高度経済成長期、公害が蔓延して何かおかしいと感じざるを得なかったのである。大学の学問も教条主義のマルクス主義も就職先である大企業も問題あるのに隠されているものがある。よい経済成長は良い人生に直結するのだというのも幻想ではないか。自分はその幻想に振り回されているのではないか、という疑念を刺激したといってよいだろう。(「自己否定」という学生運動の立て看板があったのも彼の影響かもしれない。)

結論的に

そういうわけで当時の学生には相当の人気があったしある意味カリスマであった。強い戦闘意欲のある論陣を張ることができる稀有の人であった。自分の立っている場所、自分が何をしようとしているかを明確にしながら、自分の主体性を出して行くような論文の書き方は学校の先生ではない。思想家である。

しかしここで私の疑問を出してみると、この論文はM・ウェーバーの言うところの支配、被支配、伝統的、形式的、合理的支配それにエートス論、そして魔術の園論などの見方を加えればさらに面白くなったのにと思えるのである。彼は、M・ウェーバーを知らなかったかもしれない。ある意味残念である。思想というのは研究とは違う。研究から総合的な立論をする必要がある。自分の概念を作り上げていく必要がある。だから彼の論文は思想を構築しようとした大きな試みだった。

ナチス人種主義の淵源は

ナチ神話、フィリップ・ラクー・ラバルト、ジャン・ルック・ナンシー、守中高明訳

松籟社発行、2002年

この本は、90ページ程度の非常に薄い本である。ストラスブール大学の哲学の教授二人が共著として出したものである。またストラスブール大学というのはアルザスロレーヌ地方にある有名な大学であるがこの地域というのはドイツになったりフランスになったりドイツになったりと国名がしょっちゅう変わったところであり現在はフランス国に所属している。この地域の方はドイツ語もフランス語も堪能な方が多くて大体がバイリンガルだと聞いている。ライン川沿いの地域である。ついでに言えばマルクスのいたトリーアも大体そういう地域であった。

ナチ神話

この本は90ページ程度の薄い本であるが言っていることは結構むつかしくややこしい。簡単ではなく複雑であり、何度も繰り返し読まないとわからない個所が多い。訳がむつかしくしている面もある。

この本のテーマは、ナチズムの本源的な思想を解明しようとした素描と言えるだろう。つまりナチズムというものが反ユダヤ主義という極端な人種主義と何故不可分であったのか、どうしてそこまでたどり着いてしまったのかというところに焦点が合わせられている。かつそれは、単なる外在的批判の対象としてではなく、我々もまた陥るところのある種の力、誘因力があると考察している。

アーリア人種

この本を読むとわかることがある。アーリア人というのはギリシャ人であるという。古代ギリシャ人だ。ナチズムの目指した思想というのが、基本的にドイツ民族のアイデンティティの探求である。このアイデンティティの源泉はというのは古代ギリシャだった。つまり神話を芸術化する文明発祥の地である世界だ。ドイツはご存じのように神聖ローマ帝国というものがあり、プロイセン主導のもと、これが解体して第一次大戦前までに統一ドイツ国として成立した。しかし、このドイツはいつもコンプレックスを抱えていたのである。というよりコンプレックスを抱えさせられた。第一次大戦の各国の補償要求にこたえる大借金国となっていったのである。つまり、ドイツ破産寸前だったところにこのコンプレックスを打ち破る思想が出てきたのである。これがヒットラーの「我が闘争」である。そしてその考えの背景を描き出したのが「20世紀の神話」ローゼンベルグである。

ドイツは己の文化がオリジナリティのない文化であることに長い間苦しんできている。それはアイデンティティがないからである。ドイツのアイデンティティが本来的にはギリシャであるがそれがフランス経由、またイタリア経由の2番煎じとしてやってくる。

ナチ(ナチス)という呼称

これは調べるとわかるが、ナチスというのは国家社会主義(国民社会主義)ともいう。このドイツ語からナチオナールゾチアリスムスという名前の略称である。またこの国家社会主義というのは、日本でも非常にはやった考え方であり、当時の右翼はかなりこの考え方を取り入れていた。また安倍晋三の叔父の昭和の妖怪といわれた岸信介もこれを勉強している。ナチスとソビエトの国家社会主義は日本に取り入れるべきと考えていたようである。

この書では作者はどの点を重視しているのか

ヨーロッパ的であった

このナチスの出現は必ずヨーロッパの帰着点としてあるという事ではない。しかしナチスの思想は自己の国のアイデンティティの探求であるとすれば各国もそういう思想に揺り動かされることになる可能性があるという事だ。日本は吉本隆明の共同幻想論ではないが、日本は独自のアイデンティティがあったので、ヒットラーのように新しくアイデンティティを作り上げる必要がなかった。恐るべきことに日本は最初から存在したのである。

この本の図式通りに筋道を書くとこうなる。

ナチスはドイツというアイデンティティの追求、ギリシャ文化の中のディオニソッス的な神話芸術に親近感を持っている。もう一つは健全なギリシャ神話、オリンポスの世界。このギリシャの文化に2大潮流があることを作者は指摘しており、その中のギリシャ的には不健康な、どす黒い、ある意味不健康な神話の方にナチスは偏っていった。こういう神話をプラトンは否定した。しかしワーグナー、ニーチェ、ハイデッガーその種の神話に乗ったも同様だった。

神話の力

神話の力というものはそれが持っている模範性、この模範性というのは神話は自分たちの生きた例であるという事だ。神話を模倣することによって、自らのアイデンティティを獲得できる。またその神話はそのアイデンティティのための装置である。ドイツの遅れた歴史の回復のためにこのアイデンティティがどうしても必要だった。しかしこのアイデンティティを確定する力がドイツにはなかった。偉大なる芸術に到達しえないというアイデンティティの不在。ギリシャの模倣という事でしかアイデンティティが確定できない。然しそれはドイツのアイデンティティではないというような矛盾をはらんでいる、という2重の命題の中で苦しんだ。

そして神話とは、一個人、あるいは一民族の根本的な力と方向性と力を結集する潜勢力である。デカルトからマルクスまでの近代的知は血肉を欠いた血の失せたアイデンティティである。それは夢見ることのできないものであり、ドイツは夢を見ることを実践する。

神話の真実

夢見ることは自ら夢に加担することである。

夢の何かを血肉化することである。そのことが魂を自由にする。また人種というのはその神話の原理を体現する場である。

特権としてのドイツ人

人種は血に由来する。言語ではなくて。自然の意志のモチーフ。

アーリア人;太陽神話の明るさ。また文明の創造者、生を芸術として理解する、中世の神学者、神秘思想家、エックハルトの理想、神より偉大な人間という理解。こういう認識によってドイツ民族は世界に勝る民族の血を引いているという神話を確立していこうとしたのである。だからこそ雑種的なユダヤ人は排除する必要がある。ドイツアイデンティティの邪魔である。

簡単に要約するとすれば、ドイツのアイデンティティの追求の中でドイツの当時の置かれた状況からこのような世界観が出てきたのである。特にその神話の意義とその活用に執着したのである。ある意味神話の窃盗である、と言われている。恐るべきは神話の持っている力、潜勢力である。

チョットまとめきれないくらい論旨が複雑に入り組んでいるが大体このような内容である。要するに神話的な力を最大限利用活用したことによってこうした人種主義的なユダヤ人虐殺までに導かれていったという事である。このことは終わったことではない、と作者は言う。

ドイツ敗北の年のハイデッガー

貧しさ、マルティン・ハイデッガー、フィリップ・ラクー・ラバルト、西山達也訳、解題、藤原書店

時代

この本は、ハイデッガーがドイツの敗北がはっきりした時の1945年6月にある城館で講演した時の、ヘルダーリンの言葉、「精神たちのコミュニズム」、という言葉をめぐって考察されている。

ある意味こういう本は専門家のものだろう。ハイデッガーのある特殊な用語から彼の全体の問題をえぐりだそうとするものなのか、ははっきりしない。しかしこのラクー・ラバルトという学者(ストラスブール大学、哲学)はハイデッガーのナチへの協力問題をかれの哲学の中に内在しているというようにとらえているようだ。

ナチへの協力

ハイデッガーのナチへの協力というのは、ハイデッガーがフライブルグ大学の総長だった時に約8か月間ナチへの親密な協力関係を明らかにした。しかし、その後幻滅したのかしなかったのかははっきりしないが、ナチへの協力関係は止めて、総長も辞任した。この問題に関して非常に多くの問題が戦後かまびすしく言われて来たらしい。ハイデッガーを語るときにはこの問題を避けては通れない状況となった。しかしこのラクー・ラバルトのように本格的に彼の哲学の中にナチ的体質が内在的に組み込まれているという批判は極めてあたらしいもののようだ。多くの著名哲学者がこの問題に関しては激論を交わしているようなので面白いと言えば面白いし、ハイデッガーに関心のない人には専門家のこざかしい論争のようにしか見えないだろう。(こういうテーマはカラヤンについても言われてきた。丸山真男は彼の音楽性にそのことが出ているというようなことを書いている。)

この本を理解するためには、本来的には「政治という虚構―ハイデッガー、芸術そして政治」(藤原書店、1992)を読んでおくべきだった。しかし「貧しさ」を読んで知ったことなので、さかのぼっていくしかない。ラクー・ラバルトのような学者は一般人にはあまり知られていないので専門家、批評家には種本になりうる玄人好みのする学者だろう。

内容

1、貧しさ           (ハイデッガー)

2、精神たちのコミュニズム   (ヘルダーリン)

3、貧しさを読む        (ラクー・ラバルト)

4、ドイツ精神史におけるマルクス(ラクー・ラバルト)

解題「貧しさ」-ある詩的断片の伝承をめぐって 西山達也

(1,2でハイデッガー、とヘルダーリンの短い講演の内容と文章を掲げてある。これはハイデッガーがヘルダーリンのある文章を引用しているためでその当の文章が載っている個所を2に掲げてある。これに関して3でこのハイデッガーがヘルダーリンを引用しつつ語ったことへの批判が展開される。4、の「マルクス」はヘルダーリンの「精神のコミュニズム」という言葉に関して語られる。最後の解題はまさにこれなくしてはこの本が何の本かわからないようなものであることを示している。)

ラクー・ラバルトの論旨

この本で語られている内容というのは、ハイデッガーが基本的に持っている思考、哲学それ自身に、ナチズム的ファシズム的なものが内在しているという事である。

その一説を引用すると

「貧しさ」の彼の講演に関してのラクー・ラバルトの批判はこういう個所に出ている。

ここでいう災厄の瞬間とはドイツ敗北の時という事であり、彼自身もナチ協力者として今後どのような立ち場におかれるか不明であり不安な時期のことをさしている。

「ハイデッガーが、災厄の深淵の縁においてさえ、あるいは災厄の完遂のうちにおいてさえ、ドイツに対して『精神革命』を。つまり形而上学とその『技術』としての世界支配を超え出る跳躍を要請したという事である。1933年の時点で、彼が妥協なしに、力づくで国民社会主義へと加担した時に信じていたものも、このような革命、このような跳躍だったのである。一年もしないうちに失望し、あるいは自らの『過誤』を真に確信したのではないにせよ、裏切られたと判断した時、ハイデッガーは同じ目論見をもって、あるいは同じ希望をもって、ヘルダーリンを「英雄」として選択した。このドイツ「民族」のいまだ理解されず、誤解された、秘せられた英雄が、いずれにせよ、ドイツの歴史的「負託」を担う高見にあることを、ハイデッガーは期待したのである。そして1945年、まさにこの日付において、なおもハイデッガーは同じ期待を繰り返し表明しているのだ-そのことを理解するすべを知る聴衆に語り掛けることによって。以来、ハイデッガーは倦むことなく反復し続けた。」p71

これは「ナチ神話」(前回ブログにて扱った。)に書かれているように、ナチのローゼンベルグと同様にドイツ的神話を夢見ていたという事である。

次の文章もハイデッガーがドイツ的精神、ドイツの国民的精神をかれは強調している。

「ハイデッガーが1934年にヘルダーリンを預言者として選んだという事実から出発しなければならない。この預言者の使命とは、ドイツ人の歴史-命運的現存在に課された使命であり-しかも『我々はだれであるか』という執拗な問いが帰結する-つまりハイデッガーが、以後、詩人によって告知された真理を述べるという責務を負った思索者として自らを引き受けた、原-政治的な使命であった。これが、実際に、国民精神主義なのである。」p82、特に彼の強調する国民・精神これこそナチと共通する言語であった。

結論として、ラクー・ラバルトの論旨は入り組んでいてなかなか素直にわかったとは言えないような曲がりくねった論理であるが、そのアプローチはハイデッガーのあれやこれやの膨大な文章の意図するところ、当時の語彙の使われ方まで調べていてハイデッガーの内在的批判としては徹底しているのではないだろうか。こういう事はニーチェに対してもいえることになるだろう。

追補

4の「マルクス」の関連で言えば、マルクスはルター主義、ヒットラーはカトリックのイエズス会。

本の場所はどこかであるか忘れたが、最後のマルクスのところに出てくるが、要するにルターの万人祭司制(この本では番人司祭制と書かれている)という考え方にマルクスは非常な関心を長い間持っており、万人が祭司となるという分け隔てのない人間の世界、教皇主義の位階制からの解放という考え方に強い関心を持っていたという事を書いている。プロレタリアート独裁や社会主義国家などは想像もしていいなかったという事のようだ。だから宗教問題の現代性が重要である、という事も書かれている。この点に関しては非常に重要な考え方なのであって、別途ラクー・ラバルトの論理の中ではっきりと示すことができればと願っている。

もう一つ追補:ハイデッガーの文章は戦後書き直されたり修正されたりしているようだし、その原テキストはハイデッガーの文書の所有権のある人しか見られない、らしい、という事が書かれている。驚くべき事であり恐ろしい事でもある。