記憶の中のヴェトナム戦争

ヴェトナム戦争全史、小倉貞男、岩波書店、1992年 330ページ

この本はすでに古いものか、今でも通用しているものかはわからないが、ともかくもヴェトナム戦争というものがどういうものであったか知りたい、記憶にあるヴェトナム戦争と同じなのか違うのか?私の小学生の時代から青年時代にかけての長い間戦争というものはこのヴェトナム戦争であった。「地獄の黙示録」という映画も見た。サイゴン陥落の時のテレビの映像も見ている。そういう印象とヴェトナム戦争は違うのか、という問題意識がずっとあったが、全体像を知るという事は仕事にかまけて、怠慢なのだろうが、してこなかった。小田実のべ兵連というのもあった。少しは共感したかもしれない。しかしそのころ、学生運動もあって、そういう学生運動からすれば生ぬるいような印象も受けていた。しかし今ではそうは思っていないのであるが。またアメリカの文化的現象というものはこのヴェトナム戦争によって大きく変わっていった。

そういうわけで、とりあえず、この「ヴェトナム戦争全史」を読むことにした。

年代と関係者

年代的には1950年から南北統一の1975年までの25年間がヴェトナム戦争だった。なお私が会社に就職したのはこの1975年だった。この後は政治への関心よりも仕事中心となっていった。アメリカではアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、4代の大統領がかかわった。政府要人としてはマクナマラ国務長官、キッシンジャー特別補佐官などといったところだ。南ヴェトナムのゴジンジェム、北のホー・チ・ミンなど。ホーは彼は1969年に死去している。その後はレ・ズアンが指導者でヴェトナム戦争を戦ってきた。

ヴェトナム戦争への関心

この本を読んでみると、ヴェトナム戦争がどのように始まったのか、アメリカの介入はなぜか、ホー・チ・ミンを中心とした北ベトナムはどのような国家でヴェトナム戦争でどのような役割を果たしたのか、なぜアメリカに勝ったのか。こういう問題意識が浮かんでは消え浮かんでは消えるが、いろんな事件が起こって行くので単純な問題意識がフェイドアウトしていってしまう。しかしこの点がわからなければこの本を読んだことにはならないだろう。しかし何故アメリカは負けたのかという事も簡単ではない。研究がいるだろう。

私の想定していたヴェトナム戦争とこの本との違いの要点

1、ホー・チ・ミンが最後までいたわけではないこと。1969年に死去、代わってレ・ズアンが指導。逆にいえば偉大なるホー・チ・ミンが死去しても同じ思想を堅持していけたという事が、彼らの力でもあった。

2、ケネディはヴェトナムに深入りするのを避ける言動をしていた。民族自決の思想の持ち主だったようだ。突然の暗殺によってジョンソン副大統領に引き継がれて、方針変更され拡大し、泥沼化していった。

3、ラオス、カンボジア、中国、ソビエトなどとの関係がこのヴェトナム戦争をややこしくしている。これについては私の方は無知だった。またニクソンの中国電撃交渉もこの戦争を危うくしてきた。

4、日本軍の侵攻と撤退、またフランス支配の復活と撤退。このあたりも知らないこと多い。

5、アメリカおよび世界の反戦思想、反戦デモの高まりがこの戦争への影響を与え続けてきた。情報戦争の時代に入った。

6、南ヴェトナムでの民衆、農民の広範な協力体制があった。

7、もう一つ言えば思想が勝った面があった。ホー・チ・ミンの思想がアメリカに勝った。

この本を読んで一番気になるところ、

ドミノ理論というものである。またアメリカのアジアという地域へのどういう認識があったのかという問題。アメリカは日本、朝鮮戦争と立て続けにアジアで戦争を展開した。対日本は核の使用で成功、その後は核は使えなくなったことによって朝鮮戦争では失敗した。朝鮮戦争による冷戦構造の明らかな発生、それが連続的にヴェトナムまで続いている。むしろ、ヴェトナムの方が朝鮮戦争より早く米国とは関係があった。中国、北朝鮮、ヴェトナムの共産化という問題をどのように捉えていたのか。

ミノ理論は冷戦そのものの考え方である。共産主義国家がヴェトナムで起こればアジア全域がドミノ倒しのようになり共産主義国家が次から次へと成立する、という考え方。恐怖理論である。アメリカは侵害されていないのである。関係ないと言えば関係ないのである。今結果がわかって考えると、結局共産主義がアジア全域を襲ったわけでもないのである。そんなことはせいぜい中国と北朝鮮、ヴェトナムくらいなのである。その間にソビエトは解体した。その中国もヴェトナムも市場開放政策である。資本主義化である。彼らは世界に孤立することを避けている。この理論に結果責任を持った人がいるのだろうか。ウィキペディアによるとアイゼンハワー大統領と、ダレス国務長官により主張された考え方で当時の外交政策にかかわる人たちの間では支配的だったという。しかしペンタゴン・ペーパーズによれば統合参謀本部とロストーとテイラーだけであった、とあるらしい。これはある意味プロパガンダ、またはキャンペーン用語だったのか?これについてはこの本は分析していない。

ここで終了するのは、中途半端ではあるが、一応いったん終了して違うベトナム問題について書かれた本を読んだときにまたこの続きを書きたいと思う。この本だけでは分からないことも多く、疑問が深くなった。

高橋和巳は一体何だったのか

高橋和巳「わが心は石にあらず」新潮文庫、昭和46年発行(1971年)

初出昭和39年から41年まで雑誌「自由」に掲載されたもの。

この本をなぜ読むのか

この本も吉本隆明と同様、我々の学生時代に超人気作家であった。会話の中にも高橋和巳がどういう事を言っていたとか、という話題になることもしばしばであった。あるいは彼の小説を読んだとか。そういうことがあって私も彼の小説を買ったのはいいがほとんど読んでいない。

積どくのも必要といわれているのでそれでもいいのかもしれないが、今振り返るとこんな当時のいかにも新左翼派の人気作家の何一つ読んでいないのは,自分の若い時代に起こったことを誰かと共感する手段もないような、ある意味自分自身残念な気持ちにさせられるのである。例えば長嶋の引退のあいさつとか、王のホームラン記録の更新とか、同時代の共感できる出来事が何もないという事に等しいような気にさせられる。そういう意味で今後もこの種の人たちの本を取り上げることになるかもしれない。ある意味では自分の若いころのこういう作家に決着というか自分なりの結論を下しておきたい気がする。

この小説の流れ

この小説は主人公がある地方の大手企業の支援により有名大学に行き卒業後はその地方の役に立つような仕事をすればその奨学金は返す必要がない、という事から地方のその企業に戻ってきたのである。そこでは彼はある意味エリートである。小説では知識人と書かれているが。そのエリートが組合活動を行い、指導者になる。時期的にいえば昭和40年前後だろう。主人公の年齢はたぶん46,7歳くらいで子供二人奥さんが多少病気、実の妹も同居している。非常な不景気が起こり、労働者の配置転換や一定期間の休職、指名解雇、などの会社側の施策と非常に対立することになる。

その間ある意味、その組合の指導者、同士でもある女性と関係を持つようになる。最後はその女性は妊娠までしておなかが大きくなっていくところで終わる。結局最後には会社側と決裂してストライキを行うことになるが、それが第二組合などできて散々な結果となる。敗北である。

話のプロットは組合活動の流れ、ともう一つは同士である女性との関係が続いていく。この二つである。しかし本当はかれは組合活動のことを書きたかったのか、その女性のことを書きたかったのかは判然としない。人間がインテリでかつエリートで人生の中で、何かと戦う、その戦うという仕組みを追求するという事は仕事のようなものであるが、その仕事は本当は意味があったのか、ここでは組合の闘争である。その組合闘争は重要な意味を社会的にも人間的にも自分のためにも持ったのか、持っているのかという問いかけのようなものを感じる。

ただ一つの疑問は同士のような存在であったその女性との関係はどうなっていくのか、どういう事を作者はこの女性という存在に意味を見出しているのか、はよくわからないままに終わるのである。あるところで家族にこのことがはっきりとばれたら大変な責任を負うことになり家庭の崩壊まで行くようになるかもしれないと不安になる、しかし結局はっきりとはそのことは分からずじまいとなったので社会的に葬られることはなく、安心できたという事なのか。そうであれば多少この小説は問題を残したという事になるだろう。

全体の印象

組合活動というものに対して非常に詳しい。その組合活動の理論のようなものも作中の人物に語らせたりしておりよく知っているなという印象である。しかし中味がそういう事で明るいものがあるわけでなく全体のトーンは暗い。それに理論が小説の中でも語られるので小難しいし面倒で読んでいて苦しくなる。更によくある活動家と女性の関係である。これもなにかこの小説を暗くしている印象がある。最後まで解決しないのである。

何故高橋和巳なのか

語り口は生真面目、文体で言えば戦前の「生活の探求」の島木健作風である。堅い、暗い、生真面目、理屈っぽい、常に内省しながらの行動が描かれる。こういう生き方がこの時代にはあったのか。もう高度成長が始まったころではないか。日本の資本主義が、特に重化学工業が勃興していたころではなかったのか。しかし学生には不安があった。マルクスを学んだ学生が多い時代に、これからはいる企業はもっとも悪の権化ではないのかというような。資本主義の悪と不正のど真ん中に立たせられるのではないかというような不安があったのではないか。さらに自分は資本主義に管理されるのではないか、という不安。そこにうまく共感できるような内容である。結局最後には資本の力には勝てないというような厭戦ムードとさらに闘わなくても最後はいいのではないかというあきらめか?解放?への示唆なのではないかという部分もある。スターリン主義や日本共産党から距離を置いた左翼思想である。そういう意味では新左翼の小説といえるかも。

補)作者は39歳で亡くなっている。だから非常に若い頃(34、5歳くらいのはず)の作品だ。そういう意味での生硬さがある。またわたしの方はこの歳になって(71歳)読むと主人公は若干異常な性癖の人のように感じる。同居の妹にも危うい関係でありまともな人生を送れるようなタイプではなさそうだ。全共闘世代にうけたと言われる所以は本当はどこにあるのか?

野間宏を今どう読む

野間宏「暗い絵」新潮文庫、1955年

この本は、雑誌「黄蜂」(丸山真男、内田義彦らの青年文化会議が編集する総合雑誌)1946から47年にかけて発表されたもので平野謙、宮本百合子から絶賛されたそうだ。戦後すぐ書かれたものであり、野間のある意味自伝的要素のある小説という事のようだ。

今この本を読むとどういう感じを抱くか。

この本の時代背景は日中戦争が始まる直前くらいの時期である。暗い時代の1937年、38年ころの京都帝国大学の学生のある左翼の青年たちの会話や感情や思想などを下宿生活を通して描かれたものである。私自身は下宿はしたことはないが、下宿している友達もたくさんいて学生時代にはその下宿先には何度も行った記憶がある。そういうものとしてみると懐かしい記憶がよみがえる。しかし、時代は違って多くの知識人、あるいは知識人に類する人たちはほとんどが左翼になり戦後すぐに日本共産党に入党した人も少なくない、そういう時代のことである。読売新聞社の渡辺恒夫主筆などはその典型である。戦前の東大や京大などには経済学部などは陳舜臣や邱永漢に寄るまでもなくまともな学生は左翼に走った。野間の場合も同様であった。

ウイキペディアや作家の戦争体験の記事などを読むと野間の場合は、戦争中に左翼だと言われて日本に帰され、獄中で半年ほど過ごすという事があったようだ。

内容

下宿先で友人からブリューゲルの絵画集を借りる。そのブリューゲルの絵画についての主人公の感想から始まる。独白である。これが暗い絵という題名と重なる。ブリューゲルの絵は確かに異様な絵である。(どなたかが書いているが、ブリューゲルの一つの絵について書いたものではなくて絵画集のいろいろな絵を見て感じたことを書いたようだ。)なんと奇怪な狂気じみた絵画であり、これがその当時の絵としてどういう評価であったのかは私としては分からない。どちらかといえばゲルニカのようなピカソの絵といえば雰囲気は伝わるだろうか。然したぶんこの絵は人間と世界を批判し風刺した絵ではないかと思われる。そういうある意味暗い絵である。(ブリューゲルの絵は奇怪な絵ばかりではない。白の使い方がうまくて明るく開放感のある静かな絵もかく。)そこに青年の主人公はひかれるのである。

これがある意味総てのような小説である。そこから先は、当時の左翼青年の会話である。急進的な人や日和見的な人など多種多様にいて、その種の会話が起こる。はっきり言って今ではそ

の言っていることがわからないだろうと思われる。その中で彼の友達はほとんどが左翼であるという事で検挙され獄中で亡くなったという。(ある意味野間の実体験でもあった。)

そういう会話を夜遅くまでしてから友達と一緒に冬の寒い京都の通りを肩寄せながら帰る会話はいかにも若い青年の会話のようで自分にもあったなという新鮮かつ苦い思い出にある風景である。然しその肩を寄せ合って帰った友も獄死したのである。そういう悲劇を背景として会話が進行していく。

結論的に

この小説が絶賛されるかどうかは分からないが、戦後のある雰囲気は伝えているだろう。一つはマルクス主義に生きて死んだ人たちの生き方、これは意味があったのか?なかったのか?小林多喜二のような人生はどうだったのかと問われているような気がする。ある意味戦後になって何でも言える時代にこの小説が書かれたとすれば、そのマルクス主義的革命の理論なるものに心中していいのかという疑問がここにあふれているのではないか、と思える。日本の軍国主義に生きそして死んだ人たち、共産主義とともに生き、死んだ人たちどちらも本当の自分を持っていなかったのではないかという疑問である。自分というもの、自分という尊厳ある独立の何にも隷従しない人間として生きる、生きたいそういう叫びがある。そういう言うところに野間の文学的価値はあるのかもしれない。

文章はながれるような文章ではなく彫刻のようにごつごつした感じがする。文章がうまいわけでもない。しかし、そのいかにも若くて力が有り余って言いたいことが多くて口が詰まってしまうような文章が人を惹きつける。

大岡昇平の少年時代、青山、渋谷

大岡昇平「少年」講談社文芸文庫、1991年(初出1973から1975年、文芸展望連載)

この本は、この4年前に「幼年」というのを書いている。その続編であろうが、著者はこの「少年」が本編と思ってくれという。(後書きにある。)

大岡昇平1909年明治42年生まれ、1988年昭和63年没、だから64歳くらいの時の作品という事になる。

内容的には、小学校から中学校の時代、年齢的には10歳あたりから16,7歳くらいか。この時代の自分の住まい、渋谷と青山の近辺にあったようであるが、そのまだちょっとした田舎であった渋谷、青山という半都会の中の少年を自伝的に描いたものである。

なぜこの本を取り上げるのか

最初は「野火」などを取り上げる必要もある。しかしこの作家は僕の良く知っているほかの作家や詩人や広い交友関係がありそこが彼の自伝的なものを面白くさせている。例えば戦争直後に日本に帰ってきてすぐ鎌倉の小林秀雄宅にいき、彼と議論する。その時は自分は勝ったと思ったというようなことを書いている。戦争を知らない小林と俺では違うんだというようなことを書いている。(徳間文庫「わが復員わが戦後」)そういう事から彼の自伝には非常に興味を持った。(若いころからの小林秀雄、中原中也、富永太郎、島木健作などの広い交友関係)

親は株でもうけたために、この金持ちが住んでいる渋谷の一等地に住むことになったという事から、この地区の事情を事細かに書いている。今では彼の書いた中では公園などは残っているようだが、水道をひいていた川とかは地図上ではもうわからないくらいである。

彼のキリスト教信仰について

彼は青山学院中等部に入りそこで信仰に目覚めるとある。聖書を読み、祈ったらしい。所が夏目漱石を読んだあたりから、1年位で信仰から遠ざかる。信仰を捨てたと言っているが、捨てるほどの決断が本当にあったのかどうかは疑わしいと考えざるを得ない。ある意味覚悟の上での棄教だったとは思われない。しかしいずれにせよ信仰から離れた。著者は自分のこの時期における非常に重要なこととしてキリスト教信仰を上げているのでそこが一つのこの本の重要なモチーフであろうと思われる。当然青山学院という事から礼拝もあり説教も聞いていたのでそういう影響は多分にあったのだろう。しかし、そこでの悩みや煩悶が大きかったようには決して書いていない。然し、この自伝を読むとキリスト教信仰に関しては良い指導者がいなかった、という感じがする。環境といってしまえばその通りだが、青山学院のキリスト教に問題があったかもしれない。ミッションスクールというのはみんな多分今でも問題を抱えているだろう.

また内村鑑三に出会っていればまた違っただろうという事を書いている。さらに言えば「野火」ではキリスト教の神が出てくる。そこで彼は悩み苦しむという事になる。だからかなりの時期までこのキリスト教にはこだわっていただろう。解決しないまま老年になったか。なお、中学時代に聖書の中のパウロの言葉について質問している。それは友人の外山五郎(この方は将来牧師になった。また林芙美子がフランスまで追いかけてきたという事で有名な男性)「我かつては律法なくして生きたけれど、戒め来たりし時に罪は生き、我は死にたり」という言葉の意味を質問したが答えられず、がっかりしたようなことを書いている。しかし、しかし、そんなことを覚えているのだろうか。そんな細かい50年前のことを。疑問である。これが本当であれば、彼はこの言葉が非常に長い間ひっかかっていた、という事だろう。

関東大震災

それより、注目をひくのは関東大震災のことである。最後の最後の方にこの話は出てくる。どうも渋谷地区は被害がさほどなかったようで、この被害を受けて困ったことはあまりなかったようだが、この震災によって、銀座や下町の有名店が続々とこの渋谷に出てきたようである。それは、この復興には最低でも4年かかると言われていたので、そのころの有名店はこぞって新興地となる渋谷界隈を選んで引っ越しをしてきたようだ。結果としては復興に4年はかからなかったようだが、いまの渋谷の発展を考えるとこの震災がきっかけだったのではないかと想像させられる。

交友関係

また彼の交友関係を見ると、やはりある程度の金持ちが周りに住んでいた、という事と関係すると思われるが、ハイクラス(財力;家の大きさに現れる、また知力;有名大学卒業の官吏や学者)の人たちとの付き合いが多いという事がわかる。少年時代に、影響を受けやすい時代にレベルの高い人たちとの関係があった。そういうことによる大岡少年の頭脳は相当開発、啓蒙、刺激を受けたのではないだろうか。富永太郎、頼山陽のひ孫か系譜の友人とかなどがいる。また現在ではほぼ無名となって忘れられているような作家や文人などと同級だとか同窓というようなことも多く、よい影響を受けてきたのではないかと想像される。

この自伝の注目点

要するに調べぬいたという事である。自分の少年時代の渋谷近辺の地誌、渋谷区史などを徹底的に調べ上げる。また友人知人という人たちには再度あってみて確認をするという。そういう細かな事実を無いがせにせず、調べるという態度が徹底している。だから煙突がどのように見えたかなどに非常にこだわっている。こういうところはいかにも小説家である。渋谷や青山に詳しい人は彼の書いているところを歩いてみることもできそうである。ある意味の東京散歩である。

結論的に

小説家としては非常に近くにいい手本なり、啓蒙してくれる人が多く、この職業につくにはいいところに住んでいたなという事である。しかし彼が書いているが、自分のアイデンティティというものにこだわったことがなくいまだにわからないでいる、そのためにこの自伝を書いている、とある。そういう事から断言はできないが、思想的には大きな迷いの中にいたのではないかと推察される。中原中也や、富永太郎という夭逝した人たちに憧れたりしている。中原中也などは生活破綻者である。明治以降の作家になる人は男女関係で苦しむことになり自堕落な生活をする場合が多い。まあほとんどといってもいいくらいだが、周りにいい手本がいたので、彼も例外にはなれなかった。やはり文士系列に過ぎないのか。地に足のついた生活感とか健全な思想というのは少ない。健全な生活というものは作家からは出てこないのか、という疑問が浮かぶ。この「少年」時代にもそのことがよくうかがわれるのである。この対極にあるのが金達寿だ。(「アリランの歌」から)

カントの平和論とは

イマヌエル・カント「永遠平和のために」中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年初版(原著は1795年)

なぜこの本を読むか。

まずカントの本はむつかしい。突然抽象化が始まる。それも極端でさりげなく飛躍していくので訳が分からない。実践理性批判などの批判論文などは歯が立たない。しかし、この本はやさしそうに見えるしかつ短い。それでカントの本は一冊でも読もう、ということとこの表題となっている、理想主義的なテーマから一度は読んでみたい本の一つであった。また中山元訳は読みやすそうである。

この本のめさず所

まさに戦争をやめて完全な平和というものを達成しようとする非常に現実的な問題意識からこの本は書かれている。だから読解的には目標がはっきりとしており理解しやすいという事の上に、短い。これはある部分は捨象している。端折っているだろう。他の文書を読めばわかるようなことかもしれないが、1冊しか読まない人間にはどこを端折っているかはよくわからない。

本の中身は

 簡単にいうと、軍備の廃絶、国際連盟の思想、法治国家と市民の健全な育成、平和条約における秘密主義の撤廃、公開性の絶対的な必要性などについての案が示されている。特にこの中で国際連盟的なものを想定しているところは天才カントであろうか。また現在問題になっている移民や難民の問題を世界市民という概念で救いとれそうな案も出ている。これはグローバル市民という言葉を使ったアントニオ・ネグリ(帝国)と共通しているところがある。ネグリにとってはヨーロッパの夢の夢といっている考え方である。

 一方でカントにとっては女性と子供は市民ではないらしいが、それはこの時代の制約と考えられる。とすればこの世界市民、突然彼はこういう形で飛躍するのであるが、この各国の市民権から世界市民という考え方に移行すれば世界中の人間は市民権を持てるという事になる。これは理想ではあるが、はっきりとした将来の目指すべきターゲットを指し示すという意味ではありがたいのではないだろうか。カント以後世界市民問題はどのように展開されてきているかはわからないが、国連はそのような動きには少しは連動しているのではないだろうか。あるいは建前だけか。オリンピックもどこの国にも所属しないそのようなグループが参加している。これはそういう世界市民的な考え方を先取りしている。現代はこの世界市民、グローバル市民への生みの苦しみの時代なのかもしれない。この考え方が各国の憲法などに取り入れられるようなことがあれば、はっきり言って戦争は完全になくなるだろう。アントニオ・ネグリの言わんとしてるところは経済はすでにグローバル化して国境はなきに等しい、と。かつこの経済に携わる労働者は権限さえ乗り越えれば世界へアクセスできる。だかららあと一歩まで来ている、と言っている。またネグリはグローバル市民権というもので市民保証をしようという提案もしている。一応現代までこの考え方は生きているのだろうか。

独特な論理の進め方

 彼の考え方は、人間の持つ自然性をうまく理解して使うべきだという考え方である。例えば民衆には法律を守らせたいが、自分だけは法律の制約を受けない者になりたいという人間がいるとしても、そういう人間も人間の自然性から自分も法律を守らざるを得なくなるのである、という事例を出している。(悪魔の世界にも法律が必要となる。)つまりこの自然という性質をうまく理解し使いながら法の整備などやればおのずとその平和の可能性が出てくると言うものである。楽観論ではなく悲観論でもない。理想論でもない。特に国際法は穴だらけなのでこの国際的な国家間の連合と国際法の整備によって永遠平和の道につながると考えている。またここで使われている「自然」という思想は「自然状態」の自然と「自然の意図するところ、自然の計画、自然の法則」という意味での自然の両方の語義として使われている。特に「自然の意図するところ」というのはいわないが「神の摂理」という考え方があると思われる。これは、マルクスにもあって歴史の法則というような言葉になる。

最後に

これは我々の課題である。平和主義というものを追求することはマルクス主義でもなければ右翼保守でもない。平和さえあればいいのか?という声も聞こえてきそうである。そういう意味ではマルクス主義からは敬遠されていたのかもしれない。しかしここに書かれていることは、非常に重要であるし、我々も考え直さなければならない。遅すぎることもない。また彼は道徳、理性、法を非常に信頼している。彼の哲学の背骨である。

戦争と個人の責任を考える

小田実「難死の思想」岩波現代文庫、2008年発売(初出1965年1月号『展望』その他は1976年まで他の雑誌などに書かれたもの。彼の33才から43才のころの評論集である。)

小田実は29歳の時に発表した「何でも見てやろう」で有名となった。その後は「べ兵連」という名で知られている活動を通して市民運動家のように見られている。しかしある時にぱったりとメディアからは消えていたように見えた。突然夜の討論番組か何かでテレビに出た小田実を見てえらく老けたなとは思った。彼は2007年に亡くなる。(1932年生まれだから享年75才)その後気になっていたので、彼の著作は少しは読んだ。小説は全く読んでいない。解説によると彼の小説は海外では評判であるという。

難死の意味

これは最初どういう意味か分からなかったが、ヤッフーなどで調べると、戦争や大震災などで庶民が無意味に死んでいくことをさすようだ。小田の造語。

この現代文庫の最初の評論がこの「難死の思想」である。33才くらいの若い人が、いくら頭脳明晰とはいえ政治意識が高く、当時の世界状況などを極めて的確に把握しているという事が目を引く。この33歳の時にはまだ「べ兵連」はスタートしてなかったようだ。

内容

これは、彼の評論の中ではこの考え方でその後もずーっと引き続き追及している考え方なのであるが、「公」と「私」の原理のぶつかり合いの問題を戦争という状況を前にしてどう考えていくのか。これは啓蒙ではない。自分の悩みの中で、自分の言葉を探りつつ自分の頭で考えて書かれている。マルクス主義とかカントやヘーゲルの哲学から発想したのではない。ある意味手作り感のある言葉で書かれているのである。その後に出てくるのは、この「公」と「私」の間を取り持つ考え方に「普遍原理」というのが出てくる。これは、民主主義とか愛とか、平等とかそういう普遍といわれている考え方をさす。

戦争という「公」の状況に「私」が取り込まれてあがらいようもない所に置かれる。彼は大阪で空襲を1945年の8月14日に受けてそこで人々の無残な姿を見出す。そこに「難死」という言葉を作った。彼は小説家でもあるので、非常に個人の問題を重視するのである。ここは非常に重要で世界史なり戦争というのには悲惨の対象としての人々は出てくるが、この歴史的な状況にある意味個人は関係ないとして政治史的に政治の移り変わりを歴史とする人が多いが、彼はその「公」状況の推移について「私」側がどれほどの問題を抱えることになるかをテーマとしている。

また、その民衆の被害者としての「難死」がさらに大きな問題を抱えているのである。それは加害者と被害者問題として取り上げられてくる。

日本人は戦争の被害者としての意識が異常に高く、加害者の意識はほとんどない、という。それはなぜか?小田の目は厳しくてその個人の責任の問題をめぐって、考えがめぐらされる。加害者であるという状況の中で被害者となった、と正確に考えることができない。この個人の責任問題を彼は重視する。もちろん「公」の責任問題は追及されるが「私」の責任問題も同様に追及される。この論文をきっかけとして、「べ兵連」活動が始まったというのもうなづけるところである。

あるところでヒロシマ、ナガサキに原爆を落とした当のパイロットの責任問題を問うところまで行く。然しこれは無謀とは言えないだろうと思う。自分のやっていることが国家の命令であれ「私」の原理はなかったのか、という問いである。(ハンナ・アーレントのナチの戦犯裁判の問題までつながる。)

また戦後、日本人の主婦が外地での戦争体験を手記として書かれてるものも多い。小田はその被害者意識中心の手記について、その主婦にも加害者という責任があるという視点が全く抜け落ちてることに疑問を呈する。ここに小田らしいところがあるのだろう。

結論として

花崎皐平の本に「ピ-プルの思想を紡ぐ」という本がある。彼は哲学者であるが「人々」の思想を大事にしたい、カントやマルクスから修辞学のように上からやってくる原理的思想に乗るのではなく「人々」の原理に戻って政治を考えようというのがあるが、この小田の本も似ているところがある。自分の頭で自分の目で見て考えていく。まずマルクスの思想があるのでもなくまずカントやヘーゲルの思想があるのではなく自分の「原理」で考えていくという態度を持っているという事だ。そして文庫の帯にあるように「公」の大義ではなく「私」を生き続けるためにである。このある意味柔らかな思想というものが、あの歴史的な「べ兵連」の活動を生んだと言えるだろう。ただ日本人の中にも少なからず良心的兵役拒否の人々がいたのである。そこは彼は触れていない。また彼の論理だと国家対個人のぶつかり合いという事になっていく可能性は強いが、ある意味個人が国家にぶつかるという事、これも実際には歴史的には少なからずあったのである。われわれはそういう数少ない例を勉強する必要もあるだろう。

また我々の仕事の中にも「公」と「私」の問題が発生することもある。よく考えて行動する必要がある。

国富論よりこの本を薦めます。


法学講義、アダム・スミス、水田洋訳、岩波文庫、全500ページ、2005年発行

(原書は1748年から51年にグラスゴウ大学での冬学期の講義の学生のノートから)

初めに

この本は経済学者として世界的に著名となった古典、国富論(=諸国民の富)の作者であるアダム・スミスである(1723~1790)この国富論は現代でも経済学としての学問を切り開いた先駆的な書であり今なお経済学徒はこの人の本を勉強するのである。「国富論」も有名だが「道徳感情論」も有名である。然し彼のこの2つの著作は長い。この法学講義は岩波文庫一冊分である。それでも500ページという分厚さとなっている。現在ヘーゲル(1770~1831)の年次別の講義録というのもあり学生のノートも非常に重要であるということになるかもしれない。このアダム・スミスの講義録もこのように何部か残されているようである。ある人によると当時の出版物は国王の許認可が必要なので文章は固くなりがちであり、言えないことも多かったようである。しかし講義録となるとまた授業風景が浮かぶような感じもするのである。そこでは現在のように録音機もないのでデータを公開されるような心配もなく話すという事になる。学者の本音が聞かれるのである。

内容は

法の一般理論風に始まり、司法、公法、家族法、相続と続く、そのあとに生活行政、軍備、戦争、国際法と続く。

 国富論を読むならこの本を読めと言いたくなる内容が書いてあるのが「生活行政」という個所。この文章はページ数で言うと全体の25パーセントくらいを割いているが、ここに彼の持論の国富論の要約のようなことを書いている。これを講義したのは28歳から30くらいの間であることを考えるとやはり天才である。

 国(国民)を富ますのはお金ではなく生産であるということ。その国(国民)を富ます生産というのは、人間の交換するあるいは交渉する特性によって生まれた分業によるのであるという事。分業の合理性という事はその仕事が非常に狭い分野に限定されているため改善し生産性を上げようというモチベーションを高める。これは自由な人権が前提であるが、そういう近代的人間であれば必ずそのような行動に出る。またそのモチベーションが勤勉にさせる。この辺りはM.ウェーバーや大塚久雄、内田義彦、などを思い浮かばされるところである。彼は奴隷との対比でそのことを描いている。比較は大体ローマ時代との比較となっている。

 法規制、税もその点から彼の論理が出てくる。自由貿易、お金(=金)の輸出は禁じられていたが、金を輸出して品物を得ることの方が国民の裕福さをさらに増やすのであると説く。お金主義の経済学者で政府の方針が間違った多くの事例があると言って歴史的な事例を説明する。

お金主義というのは王様のように国庫にお金が減って輸入品が増えてくると貧しくなってしまうという考え方である。商品の量を見なさい、とアダム.スミスは言う。逆に問題があると言って関税をかけたり禁輸したりするという事が国民を貧しくする。そのお金を動かしていくことが必要なのである、という事だ。分かりやすいと言えばわかりやすい。この考え方の延長線上にマルクスやケインズが出て来る。彼は小さい政府論者である。また法規制は極力ない方がいい、という。自由貿易論者でもある。重商主義的だ。

  この国富、国民の豊かさを得るのは、分業という非常に効率のよい生産方式があればこそである。これによって国富の増進ができる。つまりこの分業を活かすための政策というものが政治に求められるという事を強調している。まさに近代資本主義の発生時期の経済学者の発言である。

最後に

  このグラスゴーの講義の年代を見ると1750年代である。これは日本では江戸時代。明治になるまでにまだ100年ある時代である。その時に法学の基本が大学で話され、経済学の基本が話されていたのである。今でも多くの人が引用するような学問がすでにあったという事が驚くべきことである。(この講義は彼の28から30才という若い時期の講義ですでにその分業という経済学の基礎の考え方があった。)

特記すべき言葉

法律についても彼は効用という言葉、そして第三者としての目という事を言う。こういうさりげなく出てくる概念というものが彼の学問を支えている。また自然価格という言葉も非常に重要な概念として出てくる。自然という言葉はこのヨーロッパの学問ではしょっちゅう出てくるが言っている人によって使い方は違う。非常に重要なキーワードとなっている。自然という言葉はある意味厄介な言葉である。

追加の感想

読後は非常に味わい深い本であると感じる。彼の講義は政治と経済が混じり合って豊かさを追求するにはこうすべきだという冷静なそして科学的な目がある。もうひとつ言えば書かれていることは基本的なことだ。そこが古典と言われる所以か。現代の日本で議論されているようなことが出てくる。一つの例では消費税、高関税という言葉、そういう事からしても我々のためには非常に勉強になる本である。

エラスムスという存在

エラスムス「平和の訴え」箕輪三郎訳岩波文庫1961年(原書1517)

初めに

この本の翻訳は箕輪三郎となっているが、途中で亡くなったため二宮敬氏が翻訳したものと考えられる。

また平和の訴えは、当時の戦争をつぶさに知っていたエラスムスだからこそかけたものでもあり、かつそのほかにも平和関連の著書は連続的に書いたものの最後のものだそうだ。

まずこの平和の訴えは当時の官房長官であった人からカール王子の教育書として作成を依頼されたもののようである。要するに賢明な王としてはどういう事を考えどういうことをするべきかせざるべきかというある意味帝王学のような教育書であることを目指しているようである。またなぜ彼が、そのような要請を受けることになったかというのは、彼は当時において国際的にみて相当レベルの高い知識人としてつとに有名であったようである。かつ彼の本はラテン語で書かれていたため、ちょっと庶民には通用しないところがあったが、いまでいえば国際流通語としての英語で書かれたようなもので、国際的には多くの知識人の読むところになったようである。痴愚神礼賛も同様であるが、彼の書いた本はどれもかなりの版を重ねたベストセラーであった。そういう知識人がその国の顧問官となるという事はその国の重みを増すというか権威付けとなるようである。

以上のことは解説に書いてあり、そのまままとめたのであるが、この解説を読まないとこの本の価値は分からなともいえる。

平和の訴え

という著書は、何が特別にすごいのかという事はない。この表題が素晴らしいという事ではないか。しかし無知を承知で言えば、これから王様になる人にまともな平和論を教えるという事が今から考えるとチョット常軌を逸しているのではないかと考えられる。マキャベリの「君主論」との比較してみるとわかるが、エラスムスの君主論は平和の王として、王国の人々のためになることをするのが王であるという思想である。人々のための王としての教育書を作ったのだ。人民のためのというリンカーンの言葉を思い出す。だからこの平和の訴えは、ものすごい特別な論理で書かれているわけではなく、今の人が読めばその通りであるな、と読み過ごしてしまう程度の感触である。しかしよく読めば、この本の背景となる問題が隠されており、この遍歴知識人の政治や戦争に関する捉え方は国際性という視点から非常に普遍的な目を持っていたという事がわかる。行間にそう書いてある。

エラスムスという人

エラスムスは、思想史の中では日本人にとっては地味な存在である。ルターや書簡を取り交わしたトマス・モア程の華々しさはないが、当時のギリシャ語聖書の校訂などを綿密にして現在につながる業績を残しているのである。15~16世紀にかけてのヨーロッパの知的世界のうらやましいほどの交流がこの本の背景にはある。それは知識を求めて遍歴したことによってなのか(当時ギリシャ語を習得するためにはイタリアへ行く必要があった。)、そういう交流が生まれつつある時代であったのか。新しい時代がもうそこまで来ていたのである。ヨーロッパを根底から変えた宗教改革が始まり、近代の世界の扉を開いた人たちがそこにいたの。旧教か新教かとかツヴィングリとか過激なアナバプテスト派やトマスミュンツアーなどが登場して来る時期であり、またそれは同じキリスト教同士が殺戮しあうという悲惨な状況が生まれていた頃である。思想の違い、利害状況の違いはあるにしても殺し合いをすることはどれだけ悲惨なことかという事をエラスムスは身をもって知っていたようである。旧教も新教も自己の思想に忠実なら戦争は起こらない。その思想と正反対のことをしても恬として恥じない、そこをエラスムスはついているのだけれど。いまの世界にも当然通用する。悩み苦しみつつ現実と向かいあう。白か黒かではなく、本当のところは何なんだというその疑問が長く続くのが現実だろう。そういうところが感じられる本ではないか。

(ユマニスト、ラブレー、渡辺一夫、大江健三郎、二宮敬など関連する人)

ロンドン塔に幽閉され刑死したトマスモア

エラスムス=トマス・モア往復書簡、沓掛良彦・高田康成訳、岩波文庫、2015年6月発行、(原著1499年から1533年までの50書簡)

初めに年代の確認

エラスムス30才から64才まで

トマス・モア21才から55才までの現存する書簡集である。

9才差である。

1517年がルター、宗教改革始まる

1523,24年ツヴィングリ宗教改革スイスで始める。続いてドイツ農民戦争

モアとエラスムスの地位

ルネッサンスも起こり、また大航海時代も始まる。ヨーロッパは激動の時代となっていった。

イギリス国王のヘンリー8世が自身の離婚問題からカトリックから離脱、国教会が始まる。英国の最高の地位まで上り詰めていた大法官モアはこれに反対して、ロンドン塔幽閉、斬首刑となる。

一方エラスムスは今でいう遍歴知識人、特定の職業なくして宮廷の顧問官になったり貴族の教育などをして生活する、がその中ではもっとも有名な知識人だった。彼は基本的にはカトリックではあったがカトリックにも批判的、ルターのプロテスタントにも批判的であった。ラテン語文化圏というヨーロッパの知的な世界空間の中では相当影響力があったのでどちらの側も味方に引き入れたく動き、あるいは味方にならないとすれば徹底的にたたくというような状況が起こっていた。

近代の始まりという問題の時期に当たる

この時期の歴史は非常に戦乱と混乱、思想もまた大きな変革期にあった。現在ではルネッサンスがヨーロッパの近代化の扉を開いたのか、それとも宗教改革がそれだったのかの議論には、M・WEBERが結論を出した。しかし近代化の問題一応棚に上げるとすれば、ヨーロッパの学問の新しい系譜がここで起こっていた、と考えることもできる。だから単純な宗教改革中心の歴史理解も偏っているのかもしれない。ある意味そういう反省を促すような往復書簡集である。

本書の中身であるが

金をいくら借りたとか、本の出版で批判されたとか、その批判者が頭がおかしいのではないかとか礼を失しているというような話が盛りだくさんで出てくる批判者や本などはたぶん私もそうだが日本人はほとんど知らないだろうと思われる。

この本でうかがえるのは、トマスモアは英国の官僚としては外交筋から大法官になった人物であるから成功した人であるし、生まれは貴族では無いようだが結局は貴族の地位にいたという事である。またエラスムスというのはその名がとどろき渡っているがゆえに多くの宮廷はかれを呼びたがっていた。またそういう事によって生活の資は稼いでいたようである。だからどちらもその時代のトップ層に近いところで仕事をしていたようだ。

もう一つはこの時代は、聖書の解釈の問題がいろいろ出ているという事もありイタリアルネッサンスもあり、そこで生まれた知的には人文主義という時代でもあり、聖書の翻訳、校訂、自らが聖書を理解する時代に入っていたのでヘブル語、ギリシャ語、ラテン語などを学ぶことが知識人の最低の教養だったことがうかがえる。エラスムス自体がこの3言語の学校を作ったようでもある。またギリシャ語を学ぶためにはイタリアへ留学しなければならなかったが、モアはその留学生からギリシャ語を習った人で留学しないでギリシャ語を習得した初めての人物とも描かれている。ルターが原典からドイツ語での聖書翻訳をしたようにイギリスでは英語翻訳がスタートし種々出回って来だしたようである。レベルは当然いろいろあったようだが。

本書の重要なところ

本書の本当の重要性は二人の関係である。友情という絆に結ばれていて、話は快活である。9歳年上で知的な先輩としてモアはエラスムスを見ている。それもイギリス人とオランダ人である。海を隔てたところに住む二人の知識人がその時代にどういうめぐりあわせであったかはわからないがそういう知的な交流としてのヨーロッパ全体という大空間があったようである。この空間ではラテン語が活躍した。このようにな人に代表される遍歴知識人たちによって交流がさらに深まる。手紙で紹介されたり、また手紙をそういう人たちに託して持って行ってもらう、など郵便制度のない時代の困難な手紙という手段での多くの交流があった。歩いたり、船にのったり馬に乗っても大変な距離である。その物理的な距離を超えて彼らは付き合った。現代のオンラインコミュニケーションではないがなかなか面と向かっての議論ができない、そういう時代の本当に面倒な、そして悠長な感じが出ている。首を長くしてどちらも手紙を待っている、またそれがゆえに友情も深く、思想的な連帯も強くなっていったのではないか。

新しい発見

 二人に共通するのは、思想的には保守的であるという事だ。カトリックを守りたいという意志は二人に共通のもののようだ。つまり世界の名著に出てくるような先端的な人物が案外保守的であったというのは新しい発見である。だからこそ宗教改革でヨーロッパ近代を切り取るという事も偏っているのかもしれない、と感じるところである。)

結論

この本は最初はとっつきがよくてサッサと読み終えるかと思いきや、分からない話がたくさん出てくる。然しそれはそれとして置いておくとすれば二人の友情というものをはっきりと教えてくれるものになっている。ますますこの15,16世紀の端境期のこの奥深い知性の世界に私も入っていきたいと思うようになった。だからある人が言っていたがヨーロッパの学問もおざなりにできない。今すぐアジアだと言っても通用しない。今後世界的な思想の革命がおこるのかは分からない。あるいは彼らのように大きな変動期が目の前に来ているのかもしれない。そのためにも友情を温め、互いの知性を磨いておく必要はあると教えてくれる本である。

日本の社会党の解党の意味

「社会主義」マックス・ウェーバー、濵島朗訳・解説、講談社学術文庫、昭和55年発行(1980年)ウェーバーの1918年講演に基づく。

社会民主党の衰退、解党、解散について考える。福島みずほ党首がテレビに出ていたが、一人社民党でやっていけるのか?

社会民主党の解党の遠因

マックス・ウェーバーのこの本を今更ながら読んで、日本の社会民主党がこうなるのも仕方ないかなと思うところである。

基本的には、冷戦が終わり、ソビエト社会主義的な国家が崩壊し壮大な社会主義の実験は終わった。悲惨な革命と悲惨な国家経営が破綻して喜んだのはその政治に抑圧されてきた民衆、大衆一般ではなかろうか。結局社会主義的な夢はこの70年程度の長い時期ではあったが多くの人が予測したように終わったのである。この問題を受けて日本の社会党も名前を変えて社会民主党としたのだけれど、やはり結果としては限りなく必要のない政党になっていった。

いったいこの理由は何だろう。

社会主義という問題の概念

社会主義というのは、マルクスの描いた世界のこの資本主義の自然崩壊によって社会主義が必然的にやってくる、またその後には共産主義というものが待っている。これは人間の究極の解放であったはずであるが、結局そうはならなかった。

私が感じる率直な一つの見解としては、人間の解放という神の国を目指す戦いというものをマルクスは描いたところに大失敗があった。批判哲学、批判経済学としては有効であった。しかし誰も知らない神の国があるという事を提言したことによって多くの人がこの説に乗ったわけである。然しそれはなかった。歴史的な大実験をしたが大失敗に終わった。このことが現在の社会民主党の位置づけとなった。共産党がいまだあるではないかという問題は、資本主義がある程度の深刻な問題を抱えているからだ。現在が問題ある状況という事を踏まえて存在している。然し早晩これも衰退の一途をたどることになるだろう。これは問題の状況が経済格差から来ているという事、グローバリズムによる国家間の経済格差という問題もあり貧しい人たちの一定の受け皿として存在してる。これは公明党も同様である。

M・ウェーバーの見解

社会主義の失敗、なぜか、これについてロシア革命が勃発した時期にM・ウェーバーが講演(1918年オーストリアで将校群を相手に)した内容にほぼその理由が述べられていて恐ろしいくらいである。M・ウェーバーがマルクスの本をしっかり読んだかどうかはよくわからないらしいが、その基本的な問題をとらえて離さない目は鋭いとしか言いようがない。

1、マルクスは時代をプロレタリアートと資本家との階級対立とみていたがそこにホワイトカラーという中間層が出現した。また機械の登場によってプロレタリアの統一に破綻が出てきた。

2、ソビエト的中央集中の管理体制というのは、官僚制化を生み出す。仕事=行政はこの官僚の下で行われる。腐敗への道、非能率への道が準備されている。官僚層の脱プロレタリア的性格

3、近代資本主義では、資本家の退場と経営者の登場。株取得の民主化と所得層の広範化。

その他いろいろの条件が出てくるが、一々が納得できるものである。要するにマルクスが描いた神の国は、そのように現実的にはならないし一層官僚制化することによって人間の解放よりむしろ奴隷化が図られるのではないかとウェーバーは考えている。

今なおあるマルクスの人気と資本主義の持つ問題

しかし今なお多くの人(特に知識人は)はマルクス主義に親近感を持っており、そのマルクスの一言一言に注意を払っているのである。それに若き(26歳)マルクスの書いた、「経済学・哲学草稿」(光文社発行、長谷川宏訳・解説)の解説によれば、当時の若きマルクスが今の派遣労働者の問題を言い当てているという解説をしているが社会主義の失敗についてはどう考えるのだろうか。あれはマルクス主義ではなかったという事かもしれない。本当のマルクスとは違うものだった、という事もいえるがしかしウェーバー的な経営、支配という視点が抜けていたのではあるまいか。かつ今なおそういう視点はマルクス学関係者はだれも指摘しないのである。プルードンの民主的労働管理を持ち出す人(哲学の貧困、的場昭弘編訳著、作品社)もいるが指導、決断などはどうするのか、また工場だけが生産の現場では今はないのである。本社の経営企画、営業マーケッティング部門という工場労働者ではない人たち(ホワイトカラー)が基本的には参加している。また工場労働者を含めた工場自体が経営もしているのが現実である。そういう意味では現実の労働者と経営の問題はあまりに大学の学者には分かりにくいだろうと思われる。何かを生産していれば工場が生きていけるわけでもないのである。

又労賃問題も全く問題ないという事はないが討議できるようにはなっている。派遣労働者の低賃金と経済格差は資本主義の大きな問題であるがそれが社会主義でなければという問題ではない。

終わりに

マルクスは革命を一つの梃子として考えていた。時代変革のための方法として、しかしそれが人を解放するものではないことがわかった現在、変化すべきではないか。マルクス主義も。しかしマルクスの訓詁学をしているだけでは何もソビエトがしていたこととかわらない。

マルクス主義あるいは社会主義が批判者としての役割はあった。しかし今は終わったとしか言いようがない。信用がない、実績がない、誰も期待しない。

今残っている我々が頼れるのは民主主義という言葉だけである。民主主義による永続的な改善、改良しか今はこの世界を良くする道はないのかもしれない。