中国人の目から見た南京事件

堀田善衛、「時間」岩波書店(岩波現代文庫所収、辺見庸解説)2015年発行(から2017年まで5刷)初出、1955年新潮社(ウイキペディアによると1953年発表らしい)

この本は、堀田善衛が1918年生まれだから35歳くらいの時の作品である。(富山県高岡市出身、慶應大学仏文科卒、伏木港の廻船問屋の息子というから金持ちだっただろう。)

この本の内容は

南京事件(1937年12月から38年2月頃に起こった、南京占領時の例の日本軍による大虐殺に関する事態)を中国人という主人公の目を通して書かれたものである。

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大戦直後の台湾、歴史のうねり

「怒りの菩薩」、陳舜臣、集英社、1985年発売。初出は1962年。

これは陳舜臣の初期のミステリーの中の一冊である。

なおこの小説は2018年8月に台湾の公共放送でテレビ化されて評判のドラマとなった。多少原作と違うようだが趣旨は同様で、台湾の複雑なナショナルアイデンテティを描いているという事だ。このドラマは台湾に対するステレオタイプな見方を覆したかったと監督は言っている。

私としては今頃なぜこの1960年代の小説がそれも台湾でドラマ化されるのか多少不思議であったため興味をそそられて読むことになった。

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戦後社会科学を見直す

戦後「社会科学」の思想ー丸山眞男から新保守主義まで、森政稔、NHKBOOKS、2020、3、20発行

この本は、基本的には日本の政治状況、安倍長期政権がなぜ可能であるかという問いである。それは、新自由主義、という言葉に象徴される政治思想が眼前と横たわっているからであるという事だ。

丸山真男についての考え方や批判についても結構導入部としては詳しく取り扱っているが、これはやはり著者が東大の先生であるという事から来ているのかもしれない。また、丸山眞男に関しても今まで出た厳しい批判一辺倒から丸山の新しいパラダイムの創造という事に評価をしていることが目に付く。それは歴史的に、時代に,またその状況によって非常に制約された人間という事もあるし、戦中の資料不足の中での知識という問題もある、とある意味同情的だ。これは大塚久雄に関してはわずか言及、内田義彦に関しては高い評価、高島善哉、平田清明についても同様、ここから類推するに少しこの戦後民主主義の担い手だった人たちに一方的否定ではないという冷静さがうかがえる内容である。全共闘世代より、一世代下の人たちの考え方はまた変化しているということだ。

(「丸山眞男の憂鬱」橋爪大三郎著、講談社選書メチエ、2017年9月発行、この本では帯に戦後の虚像を粉砕する、というまたさらにその下に、丸山を根底から批判する、という厳しい宣伝文句がついている。丸山眞男は逆の意味で宣伝に使われているのだが、この方は1948年生まれ。全共闘世代である。)

この本の内容

この本は、戦後の社会科学という学問がどのように変遷してきたかをある意味わかりやすく、簡潔に、てきぱきと語っている。問題は、日本の民衆といい、大衆といい、日本政府に統治されている人たちの考え方、また政府の考え方がどのように変化しているかという事を追求しているのがこの社会科学というテーマだという。どちらかといえばこの民衆といい大衆という人たちの政治的可能性がどこにありうるのか、そういうことを追求していると言える。

その中心問題

世界的に人々は保守化しているという。自分にとってためにならない政府というものを支持してきているように見える。この民衆の保守化という現象、政府の右傾化という現象はグローバルにみられる現象であるが、それが政治学の立場からどのように見えるのか、という問題提起である。特にその中で結論的にいえば新自由主義という概念が非常に重要であるという事である。

その新自由主義についてまとめてみると。

新自由主義の指標として挙げられているコンセプト

市場競争中心(自由競争、負け組の格差問題)

グローバル化(の中の低賃金)

自己責任(福祉の切りつめ)

小さな政府(財政圧迫問題)

民営化(市場での効率化)

一方で国家、政府の介入による市場の立て直しを図るという矛盾

と捨てられない福祉国家と軍事主義

新自由主義についての起源など具体的な説明

この考え方は冷戦、冷戦後、そしてニュウレフトなどの思想を経て出てきているので社会党になろうが自民党になろうが同じ政策をとらざるを得ない。

こういう国家の形態、政府の方針に対して統治される側はなぜこういう体制を支持できるのか。弱者というマイノリティとの格差は増える一方であるが自己責任という思想から抜けられない。軍事主義も自己責任論である。憲法改正論の中の9条問題は現代の自己責任論からくるテーマであり、サラリーマンなどには受け入れやすいのではないか、企業倫理とかガバナンスとかコンプライアンスとかはみんなアメリカ風の市場主義の要請であり根拠はないもののこれには日本の会社は全面的に従ってしまう。誰が言っているのか、どういう原理がそういう決め事を作ったのかは誰も知らないが、従ってしまう。市場主義と自己責任論からくる問題と考えられる。

大衆の側からすれば、自己責任という自分を縛るものがあるので、ネットカフェで暮らしていて不満はあるものの政府が悪いとは思わない。今回のコロナウイルスでネットカフェが閉鎖されるときに寝泊まりのために市がホテルを提供したニュースが流れた。そのホテルをあてがわれた本人は非常に喜んでいて市の政策をありがたがっていた。自己責任だけではなく福祉的な処もある程度あるというのが今の政府である。10万円を国民に渡すという政策もその一環であって、特に学会を支える低層の人たちは政府は信頼できると感じるだろう。要するに自民党の政策、反対の野党の民主党系であってもどちらでも政策的な違いが少ない、という事を大衆は感じてるのではないか、それなら安定政権または玄人の方がいいという事ではないのか。

9条問題に限っていえば、右も左も大それたことはできない。日本は戦争をするのかという、本にも書かれているが戦争をするほどの金はないそうだ。9条問題を自民党もいろいろ言っているが本腰なのかは疑問が残る。今回もコロナの問題で憲法改正などと言っているが、こういう出し方が正当な手続きを踏めない自民党の弱さでもある。また9条が憲法改正となっても、福祉国家的であることはやめられない。中国も今回のウイルスでは福祉国家的対応をしているのと戒厳令的、軍事的側面を両方出している。中国もそういう意味では福祉国家であることは間違いない。こういうことが大衆にとっては保守化しやすい状態ではないか。

新自由主義は根が深くそこからどんな立場の人も逃れられない。

繆斌工作という和平工作を知っているだろうか?

銘のない墓標、陳舜臣、中公文庫、1991,9、初出1969,1講談社

この文庫に入っている最初の小説である。(3作品が入っている)

小説の背景となる歴史的な人物と事件

この小説のテーマはミョウヒン繆斌という人物の話である。彼は、今では知っている人はほとんどいない。しかし、実際にあった繆斌工作という有名な事件の首謀者である。昭和20年はじめ南京汪兆銘政府の要人、繆斌が日中戦争の和平工作を行い日本はこの密使を相手にせずという外務大臣の重光葵の反対によって退けられてその工作が失敗した事件である。汪兆銘政権のほとんどが漢奸としてその後国民党政府により銃殺刑となったが、この繆斌は一番早く死刑とされた人物である。裁判までの間の監獄では最大の好待遇であったようだ。しかし裁判がすぐ行われ、即処刑となり、そのこと自体何かの問題を隠すためだったのではないかと憶測を呼んだ。

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中国人の青春

楊逸(ヤンイー)「時が滲む朝」、文芸春秋、2010年発行、(初出2008、文学界)

天安門事件のころに大学生であった主人公が、その後大学を退学させられて、日本へ来る。その天安門事件関係の人々の動向と中国人の日本での生活の一端を垣間見せてくれる。彼らの政治信条や中国にかける思いや、その前の文革からの影響など非常に短い小説の中にうまく取り入れて書かれており分かりやすい。内容は単純で分かりやすいが中国人の、多分、複雑な気持ちを言外に伝えている作品で芥川賞を受賞した作品である。

著者はどういう人か

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自然権、自然法の重要性

岩波文庫、ホッブス著、ビヒモス、翻訳山田園子、2014年発売

概略

イギリスの1630年あたりから、1660年あたりまでの歴史を中心として、そのイギリスの内戦状態の原因について分析した本である。王が処刑されてから王政復古までの間の激戦の状況である。最後はクロンウェルまで登場する。なぜこういう事が起こったかという事のホッブス流の分析である。若い人とホッブスらしき人との二人の対話で話が進んでいく。若い人が質問してホッブスらしき人が答える、というのが連綿と続く。

このほんを読む人はどんな人だろう。ホッブスだからと言って読むのか、イギリス史の一環として読むのか、いろんな読み方があるとはいえ、歴史の一ページの話を事細かに読んでどうする、というのが、この本を手にした時の第一印象である。

ある意味これも古典である。とっつきにくい、しかし味わい深い。そう思える箇所が沢山出てくる。

ホッブスは今の言葉でいえば体制派である。王側の見方をしているのである。民主主義というものを知っているようだが、それが素晴らしいとは全然思っていない。彼の理論である自然状態では人間は何をするかわからない、だからある支配者に合意の上で、規制=法をゆだねて自然状態の危機を和らげようとする考え方の持ち主である。弱肉強食であり人は他人に対して狼であるという。しかしそのホッブス流の考え方をまとめたリバイアサンに通じるのであるが、まだこの本ではあまり理論化されてはいないようにも感じる。つまりこの内戦をみて彼の政治的理論が作られてきたと思っていいのかもしれない。

背景にあるイギリスの学問の先進性

この本を読むとびっくりすることがある。民主主義、共和主義、専制主義などの政治形態についての知識が豊富にあること。また主権概念、国家、国、国民というものを定義しているわけではないがその種の学問の裏付けがすでにあったであろうと推定される。特に国民についてはマルチチュードという、ネグリが使っている言葉が出てきたのにはびっくりである。近代思想の走りであることは間違いがない。

話を簡単にすると

この内戦の主役は、王、貴族、国教会、カソリックの教皇、議会(貴族院と庶民院)、長老派の牧師たち、更に庶民、これにアイルランド、スコットランドなどの諸国が加わる。特にこの時期は、議会派が非常に強くなっていて王と戦えるような権力を少しづつ掌握していく。その議会派の論理をホッブスは徹底して非難する。それは論理的ではないという事と法の精神に合致しないまた国家の安全に寄与しない、平和構築的ではない、ということ。嘘がまかり通る。今でいう大衆政治が執り行われたという。

特に彼は、義という言葉、ライト、ジャスティス特に正義と訳されるジャスティスをないがしろにしている、と主張する。これはヨーロッパ特有な問題である。教会法これは庶民、王にとっても王権神授説なるものもあったくらいで、聖書を教える、教皇や主教は神の霊を受けている神の代理人と考えられたくらいなのである意味抑圧的に重要な法であった。。そして人々もそう考えた。だから教会の権威(支配者型宗教=大塚久雄)は強烈であった。そこに長老派というプロテスタンティズムが登場して、これは王は許されざる存在であると吹聴しまくり扇動した。その意見が庶民院に反映され、思想と法の混乱が起こってきた。つまり世俗法と宗教法がぶつかり合っているのである。この混乱が内戦に拍車をかけた。そして議会派の宣伝や誇大な嘘、こじつけの論理、誤った法論理によって王や主教や貴族や関係する人々が有無を言わさず処刑されてきた。あのロンドン塔で。

結論的に

ホッブスは王に国の内部の自然状態の危機を乗り越えるための支配権を合意の上に譲渡することによって平和と国家主権を確保するのだという論理である。そういう思想なのでこの本を読むとホッブスは保守派なんだと感じるようになるだろう。

しかしよく読むとこれは王の問題ではなくて、優先されるべき自然法、自然権、平和、国家主権の問題であり、極めて現代的な問題の端緒を切り開いている感じがする。

この本を全面的に理解したとは当然言えないのではあるが、ホッブスはこの王党派と会議派との戦いからこの自然状態、自然権、自然法というものを理解して思想までにしたのではないか。

古典の価値というのは決して安直な分かりやすさではない。分かりにくい、一見とっつきにくいというところに特徴がある。なぜか、ある概念を手に入れそうな所にいるからだ。分かりやすい説明ができないのである。

ついでに、

この表題のビヒモス、という言葉知っているだろうか。

これはヘブル語のベヘモスから由来している。これはヘブル語では動物である。一般的には動物という意味がある。しかし旧約聖書では創世記、ヨブ記に出てくる。リバイアサンは水の怪獣である。ベヘモスは陸の怪獣である。カールシュミットは「陸と海と」を書いている。旧約聖書は天地創造の前に混乱と混とんがあったことを前提にしており、その混とんの原因であるのはこの怪獣である。混沌を制覇した神がヤハウェなのである。これは旧約聖書では常識となっているようである。イザヤ書などにその痕跡であるものが出てくる。

新自由主義という民営化の思想

新自由主義、その歴史的展開と現在、デヴィット・ハーヴェイ、監訳渡辺治、作品社、2007年、

デビィット・ハーヴェイは1935年生まれ、経済地理学者、原著2005年発行(ということは著者70歳の時の作品)

この本は、新自由主義という、世界先進国を覆っている考え方の基本を分析してみたものである。最後にどういう対抗軸があるのか、解決策はあるのかというところはちょっとよわい部分であるものの、新自由主義に関しての特に経済に関する本格的な分析であることには間違いがない。(前回のブログで取り上げた、森政稔氏”戦後「社会科学」の思想”の新自由主義と取り上げ方が多少違うが基本的な見方は同じである。)

本の内容

まず、この本の出発点は、イギリスのサッチャーの政策から始まっている。確かにここにすべての新自由主義的考え方が出ていると言える。一つは国営の産業部門を民営化するという難問についてはサッチャーは鉄の女として実現した。その後に続く先進国はこれを真似できることになった。日本でも同様に、国鉄の民営化、郵政の民営化と続いたのである。これを可能としたのは、イギリスの改革の実現例があるので日本でも可能となった。これはその他の先進国も同様のことをせざるを得ない状況となり多くの国で民営化が叫ばれ実現していった。民営化すれば効率化できるという。これは世界的にそういう方向に動いた。この民営化の発想は、当時のイギリスの強い労働組合の、日本も同様だが、問題もあり、政府財政を長年苦しめてきたものであった。それはまたイギリス病ともいわれ産業の衰退、景気の後退が長い間続いていたのである。その後世界的には水道、年金、地方自治体、さらには一部の軍隊などの政府関連機関でしかできないと言われているものを民営化する動きが加速化されている。この動向が新自由主義的と言われる。これは、分かりやすく簡単に言えば、自己責任化である。自分のことは自分で責任を持てという事だ。貧しい人は貧しくなったを責任を取れ。失敗した人は失敗したという責任は事故にあるのだという。政府の支援は出来ません。自分で解決してくれという事だ。日本ではこのことが言われたのは危険地域、紛争地域にいきそこのテロリストにとらわれた時に盛んに自己責任だという事が言われた。私が見るところによると世界的にこの発想はますます顕著になっているように見える。つまり我々は自由なのだから自由の代償としての失敗や貧困は自己責任である、というものである。一方で自由が強調され、負け組を自己責任化する。これが支配層、政府エリートの発想の原点でありまた、これが国民的に理解されやすい同意を形成しているわけである。だから社会的に保護されている人たちを、ヘイトスピーチではないが、彼らが極端に嫌う現象もこのことから出てきているように思える。軍事主義も戦争で負けたら自己責任なのだ、という発想から軍事防衛的、憲法改正的な発想に自然にたどり着く。これは右翼だからという事ではない。安倍政権も小泉政権の延長上にしかないのである。そういう新自由主義的経済の運営は自動的に行われていくという事になる。

特色ある中国的新自由主義

この本のなかで一番精彩のあるのは、中国に関しての個所である。それ以外のところについては若干今読むと古いところもあるが中国に関して、資本主義的流れを新自由主義的ととらえられるような分析となっている。この個所はジョヴァンニ・アリギの「北京のアダム・スミス」での分析と類似しているともいえる。

彼のあげている一番新自由主義的と言えるのは、農業人民公社から郷鎮企業の創出であろう。これは明らかに集団責任制から個人責任制の導入である。それにより成功した郷鎮企業が続出したのである。(1995年には1億2800万人の雇用)こうした民営企業の成功が中国を引っ張っていった。それについてい行ったのが国有企業である。しかしその後の中国ではこの国有企業は相当な重荷となっているようである。特に銀行。これらの国有企業が今後どうなっていくか。新自由主義の一番の特徴である、個人責任制によって爆発的に中国は成長してきた。その間、解放特区や沿岸開解放都市などの特殊な政策を通じて中国の経済を成功に導いてきたのである。一方で天安門的な香港的な問題は一層強まっているが、この種の問題については暴力的、抑圧的、管理社会的である。

但し、中国の賢明さはこの経済発展という事に関してはアジアの他の小国以上に日本からも学んだという。これだけの外資を導入しながら、外国資本が引き上げた時の凄惨な状況は生まれなかった。またバブルだと言われながらそれほどの大きなショックはなかった。この原因としては、ハーヴェイの本には書かれていないが中国的賢さが随所に出たのではないだろうか。例えば減税優遇策一つとっても、その土地やその事業から逃げ出すことはできないのである。それは大連で東芝がテレビ事業をやめると宣言した時に事業継続期間の土地代、税金を優遇された分をさかのぼって払っていけというような厳しい政策があった。このため海外事業主は相当な期間を中国で仕事をせざるを得ない状況に置かれてしまうのである。また資本も全部は持って帰れない。利益もそうであるが、その金は中国で使う事しかできない。だからある日本の企業は、中国で大きな利益を上げていても現実のキャッシュは増えないというようなことがある。その巧みさには感心させられる。

そういう意味では政府の指導の徹底さというものが日本やシンガポールから学んでいったと思われる。ハーヴェイは一方で経済覇権を狙い管理国家化しているという事を新自由主義的と言っている。

結論的に

ある意味新自由主義という言葉が今ではあまりに広い風呂敷になってしまったのである。日本とアメリカの共通項は分かるが違いがはっきりしない、中国とアメリカは経済覇権的であるがどのような構造的な違いがあるのか、政策立案過程における類似と違いなどが今後はっきりさせられる必要もある。またそのご各先進国はどのような発展をしていけるのだろうか。アリギの本ではないが経済的覇権国が世界を牛耳ってしまうのか。アメリカは世界の軍事から撤退しそうな傾向も見せている。また民営化のその後はどうなっていくのか、医療や水道、高速道路、軍事などもどんなことになっていくのか。但し日本の郵政の民営化でゆうちょ銀行、かんぽ生命ができたが問題が生じた。しかしその社長は政府から派遣されるのである。こういう政府から民間へといっても政府系が指揮し指導していくのには本当の効率化があるのか。そういう例は枚挙にいとまがないので相変わらず無駄な失敗を繰り返しているようだ。だれが責任を取るのか。

森政稔氏(戦後「社会科学」の思想)が言ってる新自由主義もこのハーヴェイの論調を踏まえてのものである。先進国共通の思想は今後どうなっていくのか知りたいところである。

また、新自由主義という言葉が出てきたら、このことだと考えればよいのである

吉本隆明を知ってるだろうか

吉本隆明、戦後史詩論、大和書房、1978年9月発行

1、吉本隆明を知っているだろうか。

二女は吉本ばなな、作家、長女は漫画家。娘の有名さで親父も晩年忘れられたころには再度有名になった可能性もある。

ウイキペディアなど見ると、60年安保の時に活躍した。また今の東工大を卒業後東洋インキの青砥工場に就職、その後は特許事務所などに勤務していた。

60年安保の時に品川駅でデモ警察に捕まる。そのころ丸山真男批判などを書き丸山と大論争となる。知識人づらしている人は信用できないとか、しかし藤田省三に師事したとあるから、その藤田の師匠の方を批判したということになる。この丸山批判はその後の東大紛争でもその残響がかなりあったと思われる。詳しいことは不明であるが。

2、なぜこの本を読むのか

吉本隆明とは我々の学生時代には左翼的な超有名な評論家であった。学生運動の思想的な支柱ともなっていたようにも思われるが、私はこの人の本をほとんど読んでいない。今回のコロナ騒ぎの中で倉庫整理をしているときに3冊ほどの吉本の本がでてきた。吉本という人は何を言っていたのか、若いころの失われた記憶を取り戻そうと、彼の本をもう一度読んでみようという気になった。本の中に書泉ブックマート、78年10月1日1200円という領収書(多分お茶の水にある書泉だろう)がある。学生時代というより社会人になりたての時期に買ったものだった。まだ学生意識が抜けなかったのか。一番とっつきのいい本という事でこの本を選ぶ。そのほかに共同幻想論や文学論などがある。

3、内容

1、戦後史詩論、2、戦後史の体験、3、修辞的な現在

いろいろな題名はあるものの戦後活躍している詩人を対象として論じている。というか戦争をくぐってきた世代、戦中世代がどのようにこの大戦を経験し、感じ、自分として態度決定はどうだったのかというような、戦争を通過し経過したことが詩にどのような影響を与え、どのような詩になっていっているのか。これを、中原中也や立原道造その他の戦前の詩とどのように違っているのか。基本的にはそのような内容である。

あとがきには、この戦後の詩というものはなかなか好きになれないという。好きになれないというものを書くというのも自分としては問題あるだろうと改めて考え直して、もたもたしながら書いたというようなことが書かれている。その言葉のわかりにくさ、文体、流れ、そういうわかりにくい、なかなか好きになれないような詩をある程度どのように理解できるかを彼なりの原則で切り分けている。

「戦後詩を背後から支えた動因は、いくつか考えられる。その一つは戦後詩人たちが社会的な体験において、もっとも戦争の前面に立たされた世代だったという事実である。」

「生野幸吉や秋谷豊の詩の世界は、八木重吉や中原中也や立原道造の詩の世界に比べてはるかに不安定であり、またいいかえれば、自然なものへの傾斜や依存の度合いは少なくなってきている。これを戦後的な共通意識でとらえれば、日本的な心情の土台をなしている自然的な秩序に対する戦いを、根源的な心情の世界によって行おうとしているところに、これらの詩人たちの独特の場所があるという事ができる。」p82

4、この本をどう思うか

論争好きな人であった吉本隆明の詩の解説と詩の歴史論である。独特なのは彼の分析が、詩人の社会性(どこに生まれ、どのような生活をし、どんな職業にいたか、あるいは地域性)などが当然ながら詩作には影響するが、そこを最初は非常に重視していたが、後半に入るとそういう問題的視点はなくなり詩そのものへ入っていくような分析となっていく。しかし、私にもこの現代史詩といってよいか戦後詩は現代音楽と同様理解されることを拒否する精神がある。理解されることを拒否というより今までの自己同一的音楽との決別という意志がある。絵画の抽象画でも同様である。抽象的アートと一緒である。しかし彼はその奥襞に入って理解しようとしていく。そうするとわかってくることがあり見えてくる。そういう発見の本でもある。遊びのような言葉、言葉の可能性というと格好いいかもしれないが、その歴史的に負わされてきた言葉の持つ印象や付きまとう感情などを振りほどき、乗り越えようとするような言葉の使い方をしているという事に気が付くのである。これが戦前の詩人にはないところの言葉の使い方である。これは確かに大きな発見であろう。歴史の重層の重みに沈んでいる言葉を開放していくような言葉の使い方である。

例えば一例であるが

 吉増剛造(「風船」)の詩から

 「ろっ骨を握って唖然としている俺たちの顔を」「俺たちははらわたに手を入れて、盲腸を引きずり出しゆっくりかみしめる」「魂というチッポケな奴を延髄のあたりから取り出してアンドロメダの方へ投げつける。」等々。誰もそれを見たこともやったこともないことだ。だからと言って≪不可能≫なことの比喩ではない。「間違いなく俺たちは続ける」というのが一つのモチーフであるように、修辞的な意味の強い意志的な可能と概念の実態の≪不可能≫を同時に提出することが行われている。この詩の不安定さはもちろん「おれたち」の位置の任意性からきている。言い換えればこの詩人を動かす衝動の不確かさから来ている。

・・・・というような解釈が加えられる。相当に吉本自身に引き付けての解釈のようでもあるが、説得力はある。但し使われている言葉を誤解しないようにしなければならない。こういう言葉の使い方、理解の仕方が力あるように見える。

4、戦後詩から現代詩へ

現代詩というのはそういう戦前にあったような自分の気持ちを率直に歌えるよう言葉を使ってはいない。その言葉の歴史とか、その言葉の使われ方の反省を通して、言葉の意味を逆転させ、転換させるような、現象学的にいえば現象学的還元を通している文体といっていいのではないか。そのような理知的な作業を施しているため難解であるが、逆にクイズ解きのような面白さも感じられる。詠嘆を隠して、自己主張を隠して言葉を操るのである。あるところでは吉本は言葉を補ってみて初めて分かるような詩の分析もしている。予備校の現代文の先生のように。現代詩は意思の、精神の直接性は見受けられない。そこまで詩文が高度化されている。成功しているかどうかは別でもあり、しかし多くの実験が必要なのである。日本語にとっても。そういうことを感じさせる彼の本である。自分で一人の詩を読んでみたい気にさせられる。このわかりにくい詩と向き合い、自分で解釈するという事が重要だ。これこそ現代である。

(旧全集の5巻に詩とは何かという文章がある。ここは折口信夫の呪術論、憑依論からスタートしている。)

追伸

吉本流は一つ思い当たるところがある。何かしら田舎臭いところが文章にある、と感じる。それは山形の工業高校に通っていたという事なのか。彼はそうはいっていないが民俗学的な成果をたくさん使っているような気がする。そういう土臭さ、泥臭さ、田舎臭さが彼の文体には付きまとっている。そういうところが、日本の若い人たちに知らず知らず享けてきたのではないか。根本は柳田国男やその他の民俗学的な問題意識に支えられているのはないか、と今はひそかに思える

トルストイの民話の面白さ

「人は何で生きるか」トルストイ民話集、中村白葉訳、岩波文庫、1932年第一刷、1985年に50刷というからかなりの発行部数といってよいだろう。

今日は閑話休題、である。トルストイの本にはいろんな民話風の話が多い。という事は彼は民話というものを聞き集めていたのか?これには解説がついていた。彼のところには民話の語り手が居候していたようで(彼が呼んだのかもしれない、その辺りは詳しくわからず)ある。彼は民衆に分かりやすく平易でありかつ簡素単純でありそれが普遍的である、また生きていくために役に立つという芸術論がある。そのためにその種の民話を集めていたのかもしれない。またこの民話といってもその語られたままではないそうで、岩波文庫50ページほどの物語に一年もかけて修正、推敲したものだそうである。

この物語の主題は、

人間が生きるために与えられているもの、与えられていないものはなにかという、ちょっとクイズのような話である。コロナ禍の中では清新な気を与えてくれる本である。

簡単にその物語の流れを追うと、貧しいロシアの靴職人が主人公。彼は家もなく財産などもなく住むところを間借りしている。奥さんと子供の明日のパンにさえ事欠くくらいの貧しさである。

この人が雪の中で、行きずりの倒れた若い男を助けることによって後に起こったいろいろな事件を通して、人は何によって生きているか、生きていけるのか、(表題はこういうように変更したほうが真実に近いのではないか)という事を平明な民話にのせて語ったものといえる。

中味ははぜひ簡単なので読んでほしい。いかにも民話的である。日本の鶴の恩返しや金の斧と鉄の斧の話のようなものであるがやはりそこはトルストイである。うまい。

行きずりの若い男の存在がこの物語の決め手となっている。ある意味、彼の芸術論のように簡素、単純しかし普遍的なテーマを扱っているさらに言えば深い、面白い、という事がいえる。

民話とロシア人

彼のこのような作品がどれだけ、このロシア人の心をつかんだか。下斗米信男氏(法政大学教授)の「神と革命」(筑摩選書2017年)というロシア革命論によると、ロシア革命はギリシャ正教の反対派である異端古儀式派が中核的存在であったという今までにないロシア革命論を発表している。トルストイ派の影響もかなりあったようだ。トルストイの提唱実践していた集団農場制についてもレーニンが学んだ。またトルストイ派の兵役拒否についてもレーニンは理解を示した。要するに民衆の中にあるこのキリスト教異端派といわれる、トルストイ派、古儀式派、鞭身派(ドストエフスキーの小説にたびたび出てくる)、分離派(これはドストエフスキーの罪と罰のラスコーリニコフがそうだ。名前が分離という意味。)ドーホボール教徒など、さらに多様な異端宗派がいるが、ある意味ロシア革命でさえこのような民俗的、土俗的なものを力として、成立している。(恐るべき多様性、土俗性、異端性である。)そういうロシア民衆の気持ちがこの民話の伝承者となり物語に結晶している。

(このロシア革命論の古儀式派問題は冷戦以後自由化されたロシアの学的研究の成果である。)

参考

こうした物語は、彼の「文読む月日」(上下、北御門二郎訳、ちくま文庫)にもたくさん出てくる。またこの翻訳者の北御門氏はトルストイの影響を受け、兵役拒否をしたので有名、その後トルストイの翻訳をいろいろ出している。

他人の存在を考える、哲学

 

デカルト的省察、エドムンド・フッサール、翻訳浜渦辰二、岩波文庫、2001年(原著1931年パリ)

この本をなぜ読むか

現象学という哲学のためには避けて通ることのできない分野である、ということと、ハイデッガーの先生であった、またその後は(ハイデッガーと喧嘩別れしたようだが)ハイデッガー経由かJ・P・サルトルやまたその他世界の哲学者(今は日本でも有名なガブリエル・マルセルやレヴィナスなど)に影響を与えた学者の本であるという事。この人の本はみすずから出ている論理学なども持っているが、読む気力は湧かない。与えられた能力で読めるぎりぎりの本がこの「デカルト的省察」である。というかこの題名からして読めそうな雰囲気をたたえていた。更に岩波文庫である。この本を一般の人が読む必要があるのか。カントの純粋理性批判は岩波文庫で50刷を超えているということだが、まさに、このフッサールの本は教養?のためとしかいえないが、この年になってこのような本を読むことは読力の挑戦でもある。どこまで理解可能か、ダメなら低山趣味でもいいという事にしないとダメだ。

(なお、中島義道著「カントの読み方」ちくま新書、では4つの読み方の心構えをしている。

①分からないところをわかったと思わないこと②絶えずこういう事ではないかと仮説を立てる。③仮説を立てたことでほかの個所も読めるのか確認する。④常識を大切にする、変だと思ったら高級と思わないこと。≪本文を多少改変≫・・・とある。また読み解く秘訣はないとある。時間をかけて理解していくしかない。・・・それはその通り。)

難しい用語が多い

この本にはむつかしい用語がたくさん使われている。超越論的、超越論的現象学、判断停止(エポケー)超越論的還元、ノエマ、ノエシス、間主観性、フレムト、指向性などなど。しかしこれはカントの本よりはやさしいと言っていいだろう。

内容

基本的にはデカルトの「われ思うゆえにわれあり」という限りなく疑う事の出来ない大前提として思う我があるという事から考えるすべての出発点にしたいという、思想がありこのデカルトのこの有名な句が近代思想の始まりであると言われてもいるのであるが、フッサールはこの考え方を活かし批判しつつ自分の超越論的現象学に結び付けていく。

「我」だけから「他我」へ

中島義道氏のいう通り分かったつもりにはならないが、私なりの曲解、誤読をあえて承知で言えば、デカルトの言う「我」というエゴを明確にしたうえで、さらに彼は「他我」という言葉によって他人というものの存在を明らかにしたと言える。またこの「我」と「他我」との関係を間主観性というがその関係についても明確にした。

デカルトまでの時代は彼の意図とは関係なく個人という自分を発見したのである。個人というのは私という個人である。それもヨーロッパにいる個人である私だ。他人は発見されていない。このデカルトの時点では他人は存在しない。自分だけが世界の中心なのである。このフッサールによって他人が新たに見えてきたのである。他人も世界の中心である。他人の存在というものが明確になった。このためには長い時間がかかった。

この本の構成

この本は第一省察から第五省察まであり、前半はこの個人の我の解明である。超越論的な還元を施して、私の「我=エゴ」の明らかな明証性の理解と後半は他人の発見に費やされている。これでサルトルが他人のまなざしという言葉を言った意味がやっと分かる。

フッサールの現象学

認識というのは、フッサールによればカメラのようなものである。レーザーを当てて距離を測距してピントを合わせるあのカメラである。自分はカメラから対象を覗いている。しかしそこに映っている像は光とレーザーで反射して戻ってきたものを見ているのである。またカメラと対象があって光が媒介して、自分の網膜に映像を作っているという構造全体を想定するのは還元作用というのである。(然しこのカメラモデルは間違っているという人もいるので私だけの理解としては分かりやすい)だからこの時点では自分はいるのだが対象があるだけで他人の存在はないのである。この他人の存在のことを「我」と異なるもの,「他我」と呼ぶ。まだこの時点では彼は世界の中心でもない。単に対象となっているだけだ。その対象が、自分と同様に世界の中心として立っていることを認識できるのは最後の最後になって「共現前」という言葉が出てからである。モナド的「共現前」という孤立した「我」と「他我」が共に存在している、という状態への認識に至るのである。

他人の存在意識への長い道のり

こんな簡単なことが長く書かれているのは、「我」や「他我」の前提となっている所属している共同体や文化や言語などや装飾のようにその本人にまとわれているもの(名前とか役割、父とか母とか女とか)を剥いで行く作業があるからである。またこの「共現前」というところまで来るのには長い工程があって、この「我」と「他我」の対になるものが互いの存在を認識するとはどういう事かという事について、「他我」の「経験」という需要語句を使いながら、こういっている。

「対になるものが同時にしかも際立てられて意識されるや否や、直ちに発生的に現れる。もっと詳しく言えば、対象的な意味が交互に生き生きと呼び覚ましあう事、交互に押しかぶせながら覆いあう事である。」同文庫p202この表現、哲学的ではない言葉使いが面白いのではないか。

結論的に

この第三者である自分以外の存在というものを認識できるかどうか、という事は非常に重要である。というのは、我々人間にとって向かいあう存在が世界の中心であり、その人が自分を中心にすべての世界を見ているとは普通では到底思えないことである。いるとかあるということは感じている。しかし私が世界の主人公である如く、その人が世界の主人公であるというようには考えない。それは会社の上司や部下であったり、兄弟だったり、親せきだったりと自分との「関係」だけはあるが存在認識に至らない。この本はこの「我」と「他我」の「断絶」と「共にある関係」の深い謎に迫ったと言っていいのではないか。しかし実際のところ解決はされていないのではないか。哲学の限界を見る思いと言ったら失礼だろうか。謎に迫ろうとして深追いしただけという事かもしれない。それはたぶんハイデッガーにも言えるかもしれない。