生き生きとしていた中世の多様な民衆

網野善彦「増補無縁・公界・楽ー日本中世の自由と平和」平凡社、1996年発行

この本はなんと言ったらよいだろうか。

いい本というのは世の中にたくさんあると思うが、これも非常によい本ではないか。

これは生まれたばかりのほっかほっかの考え方をたくさん提示して、なお、まだ、いろんな点で実証が不足していると自分でも言っているが、すでに固まっている正統派の歴史学ではないだろう、通説を否定する学問である。またすべてが新しい考えである。また論争的と言っていいかもしれない。歴史の中にエートスを持ち込んだウェーバーを想起させる。日本の中世史のなかで一切触れられてこなかった、漁業民、日本全国を漂泊する所の、ここで注目される職能民、芸能民、非人、などの存在、または自治をしている町々、津や浦々の発見である。

中世史と言えば荘園史というくらい、荘園という土地制度史的世界が主流なのである。そこで登場するのは、天皇、武士、農民だけである。また単なる発見でもない。そこにある共通の思考を見つけたのである。それは可能性としての発見である。そういう場面、状況が生々と伝わってくるような論稿である。

またこの本は最後まで読まないと味わえないものがある。あとがきでもあり、増補の文章でもあり、増補の補注でもある。安良城盛昭との論争など最後の最後に方に出てくる。彼の本音のような考え方、自分の理論のかけたところへの不安、心配といったもの、さらに言えばそういうものを乗り越える考え方も出ている。

彼の略歴

網野善彦、1928年1月生まれ、2004年2月76歳で没、1950年東大を出てから渋沢敬三主宰の財団法人日本常民文化研究所勤務、1954年水産庁からの予算打ち切り後、永原慶二の紹介で都立北園高校の非常勤講師、1967年名古屋大学文学部助教授、1979年神川大学短期大学教授1998年定年退職、2000年宮田登の葬儀委員長を務めるも自信肺がんとなり闘病生活に入る。学者としてそう恵まれた地位にいたとは言えぬ略歴である。

残念なこと

今頃全国の津々浦々に自治都市があり歴史があり、それぞれの長い歴史があり特徴があるという彼の指摘について、今更この年になっては、そういうところに行ってみたい気もするが、なかなか行けないということがまず念頭に出てきてしまう。非常に残念なことだ。特に琵琶湖の長浜にはよくいったのに周辺には全くいってない。ここにはキャノンがあり菱樹化工という三菱樹脂の会社もあり、何十回となく往訪したのだがただ飲んで帰ってきただけというのも悲しいかな残念としかいいようがない。(余談であるが、ニューヨークに行ってベスページカントリークラブに行かなかったくらいの残念さである。またはそれ以上だ。)

内容

この本の一番の発見は、先に書いたように、非農業民の活躍である。彼らが何をしたか、どういう生活をしたか、ということだ。最初は駆け込み寺の問題から入る。この駆け込み寺というのは、キリシタン時代までもあった。駆け込み寺へ逃げたキリシタンはたくさんいたようだ。ここに入ると法律や支配とその統治権、また警察権が関与できないことになる。これを無縁寺という。この無縁寺というのは日本全国たくさんあった。ここから公界、楽という多様な概念の言葉によって広がりを持たされるのは、彼らの自由と平和と民主主義である。さらに言えば自主であり独立の思想である。つまり、彼らが意識していたかいないかにかかわらず、自由があり平和があり一人一人の権利が確保されているのである。特に公界と言われるのは道路、道端で市が開かれるがこれが公界なのである。ここでは争いごとや当時の支配者からは隔てられており、自治的場となっている。こういうことが一々の市、つまり十日市、四日市というような市が立てられるところにはあったそうだ。そこで活躍するのは非農業民、芸能民であった。これについては細かい説明がある。またそこには、支配者からは無縁である人たちの世界でもあった。この人たちのことは細かい説明を除いていえば無所有であることを大切にしている人たちでもあったということだ。この無所有性は歴史学者からの批判も多いが面白い観点であり我々は納得するものである。こういう観点を推し進めていくと日本にもアジールという世界,聖域となりうる場所があり、そこが無所有の無縁の人たちにとっては生きる場所でもあった。このことは「中世を旅する人々」阿部勤也の本にも出てきており、この社会史的学説と相通じる。彼のその略歴にあるように民俗学と親縁的であり柳田国男やその他の民俗学者たちさらにこの社会史的世界とのつながりを感じさせる。橋や港、さらに言えば仏像の建立などこういう無縁の人々の考え方と活動によっている。虚無僧、白拍子、傀儡師、山伏の存在など面白い。

農民一揆、非人の一揆、漁民の一揆などの内部の掟などのにその民主的手続きなるものもあるといわれている。また古代の農民が奴隷であったというのは全く違うとも言っている。彼らにはギリシャ時代の奴隷とかロシアの農奴とは全く違ってある一定の自由がある。マルクス主義では総体的奴隷制と言われているものに対して反論している。

結論的に言えば

日本の歴史の中に固定化され全く自主、独立の面影もないとして暗く絶望的でしかなかったと考えていた古代から中世にかけての民衆像の中に、新しい人間像が発見されている。日本史の中に希望を見出す新しい人間像だ。可能性としての人間像である。それが彼の歴史学の他の人とは全く異なる史観ともいえるだろう。

参考

網野善彦の本の中ではこれがベストセラーだった。志半ばで亡くなったか。

岩波書店から、網野善彦対談集(全5巻)というが出ており、日本中世史の大御所がたくさん対談している。永原慶二や黒田俊雄、旗田巍、竹内理三、尾藤正英、石井進などをはじめとしてこれも相当に魅力的な対談である。

最後にもう一つ。

あとがきがこの本には二つあって、本人のものと解説的あとがきがあり解説は笠松氏のものである。この解説も心のこもったものだ。本人のあとがきに、ドイツ中世文化史の北村忠夫氏から教えを乞うていた時の話が出てくる。これは社会史家と日本の歴史家との非常に稀有な出会いと感激に満ちたものだったようだ。

「私が『公界』の問題を持ち出すと北村氏は『フライ』、『フリーデ』に言及されヘンスラーの著書を貸してくださった。私の語学力の不足と怠慢からこれを本書に十分生かしえなかったことは申し訳ない次第で、お詫びしなければならないが、『一揆』に話が及んだ時、『神の平和だ!』といって手を打った、北村氏のお答えは忘れられない思い出である。」とある。ここだけ読んでもわかりずらいかもしれないが、ヨーロッパの歴史を貫く思想とほとんど同じものが日本で発見されたということに二人とも感動したということのようだ。(オルトヴィン・ヘンスラー「アジール法の諸形態」1954年、のことで日本では翻訳・紹介されていない。アジールについてはほとんど本格的研究がないということについても網野は憤慨している。本書p236)

差別の根源を見る

沖浦和光「天皇の国・賤民の国  両極のタブー」河出文庫、2007年(弘文堂90年発行のものを一部割愛して文庫本とした。)

沖浦和光という人

岩波新書「瀬戸内の民俗史―海民史の真相」筑摩書房選書「宣教師ザビエルと被差別民」などは私の読んだ本である。その他著書多数だ。

ウイキペディアによれば、1927年生まれ2015年没、東大で共産党活動、東大共産党極左派で安東仁兵衛(丸山眞男の弟子と称している。)とともに活動、東京大学英文科卒業後大田区立大森第八中で英語を教える。その後晩年は桃山学院大学の学長になっている。専門は被差別民・漂泊民の研究。私の読んだ限りでは、被差別民の研究から差別の原因となったものは何か、という根本的な命題に歴史的にアプローチしたといってよいだろう。

この本の対象時期

この本は、天皇制と差別の問題を扱った小論文を集めたものだ。論文としては短いものだがやはり、一本の太い線で筋が通っており読むものを納得させずにはおかない。前回扱った網野善彦の時代は中世だがこれは古代、中世、近世つまり江戸時代、明治維新以降にも対象は拡大している。

この本の内容の概略

日本という国は、東北アジアの騎馬民族が朝鮮経由、日本列島に入り征服してヤマトに征服王朝を作った。(江上波夫の騎馬民族征服王朝説、簡単に参考として著者の言うところの騎馬民族説を別途後半に掲げてある。)先住民族であった隼人、蝦夷などを圧倒する軍事権力で殲滅、隷従させた。そして反抗する者たちを差別する階層を作った。その天孫降臨の万世一系、血統の連続という天皇制が貴・賤の差別構造を生み出した。中国の王は移譲されるものという考え方で血統は関係ない、またエジプトのような農耕文明の国は血統の純粋性とか天孫という思想はない、という。日本独特というか東北アジアから来た騎馬民族に特有な思想だった。

貴・賤から聖・穢の差別への推移

 ところが日本では中世あたりから天皇の軍事権力の後退から来る支配権力の衰退により祭祀的支配者として重心を移動してきた。それにより、貴・賤の差別から聖・穢差別へと移行した。その背景には天台宗、真言宗などが国家護持宗教として、中国経由密教を輸入したことにより思想的に固められてきたという事実がある。空海が唐に留学し天才と言われて取得してきたものが密教だった。しかし彼の書いたものの中に、徹底した差別の考え方を述べた箇所があるとして実例を挙げている。(後述)

インドの仏教の密教的要素がどのようにして成立し、どこに問題があるのか

BC15世紀ころ騎馬民族であるコーカサス系アーリア人がインド先住民族のドラヴィダ族を征服してヴェーダ聖典によるカースト的な差別思想を生み出した。支配者が征服民を差別する思想、カースト制の初期型を作った。BC5世紀バラモン教の宇宙論の集大成「ウパニシャッド」が成立、簡単に言えば汎神論的宗教、祭式主義的である。また輪廻と業の宇宙論的宿命論を説いた。この輪廻からの解脱のためにはヨーガによって、精神統一と迷妄からの脱却が必要となり、これがこのバラモン教の根幹となった。また人間には4階層の種類があると説く。この階層がカーストである。これがその後の仏教、ヒンズー教に大きな影響を与えた。そこから仏教が生まれた。最初から仏教はこのバラモンとは対立する思想を掲げてきた。反儀式、反差別、反有神論、輪廻に対する反宿命論、反アニミズム(呪術)。釈迦の死後、2世紀、3世紀は仏教としては実りの多い時期だった。ところが4世紀になるとグプタ朝が起こり、たちまち版図を拡大して大帝国となった。この勢力の支配のかなめはヒンズー教とカースト制であった。ヒンズー教の優勢化によって仏教は劣勢に置かれた。この時、徹底抵抗か妥協してヒンズー教の下での仏教として延命するかという二者択一の状況を迫られた。この時代から仏教はヒンズーの影響のもと釈迦の独自の思想を喪失していく過程であったという。

空海の密教の問題

インドでは仏教がヒンズー教と混交してきたことにより、ヒンズー教のもつカースト制的思想が中国経由、日本の仏教に持ち込まれた。このことにより聖・穢の差別の方向へ向かっていった。これについては、空海の思想にそういうことが垣間見られる。その色々な言葉が引用されているが特に不可触選民について無間地獄に落ちるものとしている箇所がある。(「遍照発揮性霊集」他)著者はこのことを一番言いたかったようだ。この密教が支配者型宗教であり、それ故に国家護持であり、それゆえに被支配層に対する差別思想の温床となった。この密教のカースト的思想の影響により、貴・賤から聖・穢れへの差別というものが助長された。

参考までに、騎馬民族と天皇制と原日本人の文明の破壊

これは騎馬民族征服王朝説の江上波夫の肝心なところとして彼が引用した部分であるが大体一読すれば首肯できるものだ。

「(扶余系騎馬民族の辰王家が二つの王国に分かれて、)一方はもとの馬韓が、百済の扶余王家となったのに対して、他方は加羅(任那)に移って日本列島の征服に乗り出し・・・・ヤマトに入ってヤマト王朝を創始、その後も倭国と百済が密接な関係を持っており、特に百済が倭国を頼りにしており、倭国が百済を終始助ける立場にあった事も同じ王朝が分岐したものとして初めて理解できることである。」p47

また祟仁天応が朝鮮半島の任那から日本を侵略した。原日本人(隼人やアイヌ人)を征服して圧倒的な軍事力により大和朝廷を作り上げ、天武天皇が今の天皇制度を作り上げたと論じている。

最近は江上波夫の騎馬民族説の動向がどうなっているかは、私は知らないし、あまり語られていないようにも見える。それは天皇制の変化にあるのかもしれない。ミッチーから始まり現代天皇制はある意味支配という観念からは隔絶されており、超有名人もしくは芸能人という所にとどまっているように見える。そういう意味で天皇制の出自についての戦争直後のような熱い研究熱や議論が交わされなくなったということだろうか。

結論的には

日本の差別意識の淵源には天皇制と国家護持宗教としての仏教の密教化がある。被差別部落の存在などの穢れの思想による差別はここからきているとみて間違いないだろう。ここまではっきりとして差別意識の淵源について語った人はまずいないだろう。インドの仏教のヒンズー教との混交について詳しく書かれている。分からないことだらけだがぜひ一読を願う。また被差別部落から日本の芸能が発生していることも論じられている。このあたりも、今は触れないが非常に興味深い。

こうした認識は、彼がインド、インドネシア、マレーシアなどの東南アジアから南アジアへ何度も足を運んで民族文化を理解したからこそ説得力を持つものである。さらに彼がフィールドワークとして古老などに聞きとり記録した被差別部落の情報ももはや聞くことすらできなことを考えると非常に価値あるのではないか。非常に薄い本ながら爆弾を秘めているような論稿である。

戦争の最中の喜劇役者

古川ロッパ昭和日記、戦中篇昭和16年から昭和20年、滝大作監修、晶文社、1987年

なぜこの本を読むか。

浅草芸能史というものを知りたく思った。これは中世史の被差別賤民の話を聞いてから特にそう思うようになった。特に自分の知っているだいぶ昔の喜劇役者、大宮デンスケの自伝を読んでからなおさらに浅草の芸能史を知りたく思ったが、その中の一つが名前は知っているこの古川ロッパだ。偶然図書館の検索の中で見つけたもので最初はもっと小型のものを想定したが非常に大部のものだった。

この日記にもいろいろ名前は出てくる。増田喜頓、徳川無声、エノケン、その他。しかし現在は東西を問わず、喜劇役者というのは激減しているのではないか。特に関東は絶滅危惧的な感じもしないではない。古川ロッパという人は菊田一夫のシナリオをかなり多く演技したようだ。しかし晩年は分裂。ロッパはいずれにしても浅草出身ではなく、日劇、東宝といった所の出身で、早稲田大学英文科中退という履歴である。また両親は子爵で古川家に養子に出された。長男以外は養子に出すという家訓だったようだ。金銭的には恵まれた育ち方をしたか。被差別民との関係はほとんどなし。大宮デンスケも同様だが、出身は結構エリート家系だ。麹町出身で空襲爆弾が激しくなってきたころには引っ越すが、生まれも育ちも麹町でだいぶ長くそこにいたようだ。

古川ロッパの日記というのは、出版されたもので4冊、写真にあるような辞書のような分厚さである。この本は昭和九年からほぼ死ぬまでの間の日記である。たぶん計算上は30代になってから毎日書いた日記の全集というべきものだろう。驚くべきことだ。こんなに書いた人はいるのだろうか。それ以前にも日記は書いていたようだが、どこかで破棄したようだ。また昭和20年7月27日で戦中日記は終了し、現在のところ7月29日から9月3日分が紛失している。よって戦後編は9月4日からスタートしている。昭和35年12月24日で終わっている。死の20日ほど前である。昭和36年1月16日没、57歳

あまりに長いので昭和20年の一年分を読む。1年分といっても7月の27日に終了なので、半年プラスといったところか。しかし終戦の大事なところが抜けていて非常に残念だ。

昭和20年は彼の年齢は41歳か?明治36年生まれだという。昭和36年没、57歳で亡くなった。早死にといってもいいかもしれない。

彼の日記の書き方

このロッパは毎日欠かさず日記を書いていた。日記を書くことを非常な楽しみとしていた。いつ書いていたのか。たぶんこの日記を読んでいる限り、夜ではなく、翌日の朝に寝床で書いているようである。だから前日のことを毎日ことごとく思い出して書いている。朝起きた時の調子から寝るまでの前日の事を、それを思い出すことが楽しいのか、思い出していることを書いていくことが楽しいのかは定かではないが、書く事の楽しみを覚えた人の書き方だとはいえよう。彼は文人でもあり本も出している。戦時中も夏目漱石、やその他の世界文学全集にあるような本を読んでいる。結構なインテリでもある。早稲田大学英文科(中退)だから外国文学には詳しかったのだろう。

空襲警報と防空壕の生活

この昭和20年の日記というものは、東京在住の人たちの空襲警報と防空壕の生活といってもいいのではないか。その庶民の生活にプラス芸能人(本人は芸人と言っている。芸能人というのは官製和語である。当局からの通達によって言われ始めた。芸人より芸能人のほうが文化に貢献しているという感じが出る、と言われて。)芸能人らしい生活を織り込んでいる。

日記の内容

大体決まっているのは、晴れか雨か、がまずきて、その後朝食は何を食ったかという。昼は大体が弁当、そして夕食は何を食べて良かった悪かったという内容。彼は卵が好きだったようだ。さらに卵と牛肉などが好きなようで体に非常に悪い、糖尿になりそうなものを好んで食べていた。その間に今日の芝居の入りはどうか、満員かそうでないか、また今日の客は良かった悪かったなどの内容である。また夜には大体は麻雀をやっていた。空襲警報が鳴るとやめて防空壕に入り、解除されると始まるという具合である。結構な健啖家で食事の内容については事細かに書いている。やはりここで驚くべきことは戦争中、東京では空襲警報が鳴り続けているにもかかわらず、6月くらいまでは何とか芝居をやり大入り満員であったようだ。またその後彼らは麻雀などして一夜を過ごしていわゆる徹マンである。これが戦争下にある庶民の生活とも思えない不思議なことだ。空襲警報もなれるとほとんど怖くならなくなるという。確かに最初は,敵機は一機、二機程度で飛んできて少し爆弾を落として去っていく。だから2時間ほどするとすぐに解除される。しかし5月くらいなると何百機と飛来して爆弾投下である。神田周辺、四谷から麻布あたりは焼け野原になる。

東京大空襲

東京空襲が一層激しくなる6月から7月初めにかけては彼は地方の軍隊、学校、工場へ行き慰問劇団でドサ回りをしていた。家族は福井へ疎開。しかし東北の仙台、青森、秋田、新潟、五泉などもいっている。さらに福井当たりから帰ってきて東京を見るとひどいのでびっくりする。

検閲

またこの間当局はすべて検閲となった。検閲官の愚かな発言が気に障るとして怒っている。ところが戦局が悪くなると次第に喜劇に関しては何も言わなくなったそうだ。

日記の問題

他人の日記というのは分かりにくいものだということがよくわかる。人名一つでも知っているものの名前であればいいがほとんどはわからない。芸能通ならということになるだろう。また同じことを何回も書いている。朝飯を何が出たとかいうのは関心のない人には読むのも苦痛だろう。そういう意味では日記も書くなら簡潔にしてと言いたいところだ。しかし彼は日記を書くのがたまらなく好きだった。下手な小説より面白いだろう、という。また書いているときの快適さ、その書いた日記は大切に疎開などして大事に保管された。そのため難を免れている。

この日記の教訓、とここから読み取れるもの。

日記とは何だろう。自分のために書いて後で読み返すと何月何日には何をしていたかがわかる。自分の存在証明、アリバイのようなものであり、分身である。これがないと一週間前でも思い出せない。そういうことのために書いている人も多い。分身と思って疎開をさせた。しかし戦時中の貴重な日記の一つであることには変わりがない。戦時中でも案外うらやましい生活を送っていた方だ。タクシーが禁止とされ悔しがっている。そのために省線にのって出演する劇場に行かなければならない。また電車が相当混んでいたようでその込み具合がもう本当に嫌になるという。また防空頭巾をかぶっているのであれロッパだは、というような声がするとはずかしくなるという。芸能人にとっても大変な時期である。日記から見える彼は悲壮感はほとんどない。戦争の話で一座全員暗くなる、という話をしたとかいうことも日記には書いてあるが、全体的には明るいトーンである。なぜか、彼のおかれた地位、ポジションというものか。生活信条、あまり悲惨な目に合わなかったのか、また根っからの喜劇役者だったのか。7月には戦後の構想も書いている。戦争が終わったらあれしようこれをしようという内容である。

逆に言えば彼自身の本来持っていた気持ちというものはあまり書かれてはいない。つまりこの戦争の中で人生如何に行くべきかということは一切書いてはいない。あるいは特攻隊の兵隊慰問にも行っているがかわいそうとかそういう感情的なことも書いてはいない。事務的とまでは言えないが、基本は事実中心の日記である。マージャンで何点勝ったとか、その金でどこで飲んだとか、闇米を買った、闇食堂でいいものに出会ったとかそういう内容が中心である。しかし書いていないが彼はいわゆる文学は好きだったようで夏目漱石やツルゲーネフ、バルザックなども読んでいた。だから書いていないからと言って問題意識がなかったわけではないだろうと思う。そういう人間感情的なことは検閲も恐れて書いていないだけかもしれない。たぶん自分の人生についての反省的意識がないとこう長い間日記はかけないだろうから。

ウクライナ戦争と関連して

今のウクライナの人の苦しみも大変なものだろうが、庶民はこうした娯楽などあるのだろうか、日本人が戦時中でも芝居を見に行ったように。空襲がひどい時期の6月、7月ぐらいでも東京での彼の芝居は超満員だというからすごい。かつみんな大笑いをして帰るそうだ。ウクライナにも苦痛の果てには何か笑いがほしかったりするのだろう。そういう気はする。そういえばセレンスキー大統領は喜劇役者だったそうだ。日本には喜劇役者になれるような大統領がいるのだろうか。そういう笑いを届ける救いの手はあるのだろうか。心配である。

アフガンに死んだ中村哲という人を想う

「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る―アフガンとの約束」

中村哲 聞き手 澤地久枝 岩波現代文庫(2021年9月15日発行、12月までに三刷)

この本は10年前に岩波から出版された単行本だった。それが現代文庫に入ることになって一部加筆(あとがき関係)されて、中村医師が不慮の死を遂げた後に改版されて出版された。

最近のNHKにも

最近も中村哲さんの遺志を継ぎペシャワール会を存続させてアフガン復興の道を切り開いている人たちがいてつい先日もNHKのテレビに出ていた。彼の衝撃のような死と大きな彼の事業の影響は死後もどんどん大きくなってきているようだ。

彼の略歴を整理する

1946年生まれ2019年12月4日没(ジャラーラーバードにて凶弾に倒れる。タリバンはタリバンの犯行ではないと声明を出している。)

九大医学部卒、専門は脳内神経内科

1984年に日本キリスト教海外医療協会の派遣でペシャワールに赴任、当初はハンセン病を専門にやっていた。

医療より水があれば救える命が多いという認識から福岡県朝倉市の山田堰をモデルとしてアフガニスタンクナール川からの引き込み用水路の工事に着手、2010年に25キロを完成。

この本を読んで初めて分かったこと

彼は内村鑑三の「後世への最大遺物」という本に本当に心底影響を受けたようだ。そのため現地日本人スタッフにはこの本を読ませたそうだ。

また九大にいた哲学の先生,西田幾太郎の弟子、滝沢克己という哲学者、知る人ぞ知る独特の考え方を持つ稀有な哲学者を通じて、バルトのキリスト教にも目が開かれたといっている。滝沢はドイツでバルトの授業を受けたという数少ない日本人の一人だ。これはものすごいことではないか。さらに言えばキルケゴールの「死に至る病」の話も出ている。内村と、滝沢とバルト、そしてキルケゴールだ。さらに小さいころから学んでいた王陽明の儒教の影響、これを知っただけでもこの本を読んだ価値はあるだろう。生半可のクリスチャンではない、ということだ。キリスト教は西南学院でバプテスト派。まともに洗礼を受けた。たぶん全身を水に沈める洗礼と思われる。たぶんこの基本的な思想を受肉しているがゆえに非常に冷静にかの地で活動できたのではないか、と思われる節もある。ということは思想家でもあった。これは当然かもしれない。

色々な賞を受賞している。最後にはアフガニスタン名誉市民権も授与された。

この本の内容

この本は中村さんを知ろうとする人には一番いい本ではないか。澤地久枝というノンフィクション作家という聞き手を介して中村さんの心の奥底まで聞こえてくるようだ。このインタビューは3回行われたということだ。中村さんの日本へ帰ってきた時の忙しい合間をぬって実施したようだ。しかしあとがきにも出ているが中村哲さんも驚いているが、澤地久枝という人は中村関係の調査をし、彼関連の本を隅から隅まで読んでほとんど聞くことがないほどの知識をもって彼女の問題意識をそれに付与してインタビューしている。1930年生まれというから中村さんよりも14歳も年上だ。

そういう年齢のことを考えると、われわれの同時代、同世代といってもいいくらいの人であった。私とは3歳しか違わない。

インタビュー

インタビューの要点は、彼の生まれたころの環境、そしてどうやってこのアフガンまでたどり着いたかの思想的な経緯、さらに彼の家族関係、取り巻く日本政府、また欧米の政府の考え方、アフガン人たちとの関係、問題のタリバンとは何か、アフガンの習俗、日本人との違い、彼らの貧しさ、生活の困窮などについての幅広い分かりやすいインタビューとなっている。大体一話が終わるころは欧米批判と日本批判となる。

あとがき

またあとがきが面白い。1澤地久枝、2中村哲、3岩波現代文庫むけのあとがき澤地久枝、4PMS副院長ジャララバード事務所所長、5PMS職員灌漑事業アドバイザー5人のあとがきで埋まっている。

結論

多くの人に慕われ、自己を犠牲としてまでアフガンの人たちに尽くした医者中村哲の業績を思うと彼我の差を思わずにいられない。同世代である。私もこの本を読んで何を感じるべきか、何をすべきか、もう少し考えてみたい。この本の表題は読者を引き付ける魅力がある。

柳田民俗学への招き

谷川健一「柳田国男の民俗学」岩波新書、2001年6月発行

著者略歴

谷川健一

1921年7月生まれ2013年8月没92歳熊本県水俣生まれ東京帝国大学卒フランス文学専攻、30歳で平凡社勤務、1963年太陽創刊の初代編集長、その後は執筆活動、在野で一貫。柳田國男と折口信夫らの学問を批判的に展開、「海と列島文化」全10巻小学館を網野善彦、大林太良、宮田登と共同編集している。(ウイキペディア)岩波新書にも「日本の地名」(正、続とある)「日本の神々」など。

柳田國男という人物

1875年7月生まれ1962年没、明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長枢密院顧問官、兵庫県神崎郡福崎町生まれ、東京帝国大学法科卒著書多数、「遠野物語」(岩波文庫)で一躍有名、民俗学の開拓者(ウイキペディア)

この本を読むきっかけ

当初は柳田国男を解説した本であろうという推測でたいして読みもせず放っておいた。折口信夫などの著書を読むにつけ、谷川健一という民俗学の巨人が柳田國男について何を言っているのか非常に興味を抱くようになった。

概略

この本は柳田國男の解説をしている本であるのはもちろんであるが、谷川健一という民俗学者が柳田國男の全体像にどう迫り、どういう総決算を与えるのかという緊迫感のある内容だ。非常に中身の詰まった本であり読むのに一苦労する専門的なところも多い。しかし柳田國男に対してはその業績を心から尊敬しているという内容である。そういう気持ちが柳田國男への反対論や批判を出しているところにもあふれている。まさに読者には、感じのいい本となっている。

内容

この本は柳田國男の思想を追っていて、最初は、山人論から入り、海民、沖縄まで来て、沖縄の信仰から来る常世の国、黄泉の国などの柳田國男の分析を開示する。

この本の最大のテーマは一番むつかしいところであり、日本史学でも最大かつ重要なテーマである天皇制というものに関する分析のとっかかりにある儀礼の新嘗祭(にいなめさい)の個所であろうか。この宮中で行われる新嘗祭、大嘗祭の考察は興味深い。要するに稲穂、種もみなどにまつわる行事である。インドネシアなどの南方に似たような儀礼がある。この考察と研究は天皇制の究極の分析ではなかろうか、と思われる。岩波新書でははっきりとそこまで言っていないが、谷川健一の「大嘗祭の成立」(だいじょうさい)1990年11月、小学館発行、には「持統天皇5年(691年)に民間伝承を巧みに利用して支配者の劇に仕立てている、、、、。」とある。この個所の解説は非常に貴重で重要だ。

また「祭日考」、「山宮考」、「氏神と氏子」という三冊を戦後すぐの(昭和21年)に矢継ぎ早に世に出したことに関して、谷川は言っている。この三冊は「一見、古い神道への郷愁の書であるように受け取れる。だが事実はそうではない。例えば『山宮考』を点検すれば、それはほとんど日本の国家神道の否定の書である。しかもその素材を、国家神道の総元締めである伊勢神宮の神官の氏神祭祀行事のなかに求めているのである。矯激の語を一語も使用せず、柳田はその綿密な考証をもって、内部から国家神道を掘り崩していこうとした。真のラディカルの見本がここにある。」(この三冊は柳田國男全集14ちくま文庫所収、この三論文がのっている。)と評している。

こういうことを通して日本の古代人の庶民の原像と支配者の究極の思想に迫ろうとしている。

結語

案外柳田國男を保守的な人と思われている節がないでもない。国学であるような民俗学を切り開いたというようなことからすれば危ない人でもあるように受け取られる。しかし実際は違う。この本にも出てくる彼の根本的は発想は、失われていく弱い存在である庶民の発見である。それが常民と呼ばれる人たちのことだ。これに関してはアイヌの存在が忘れられているという批判もある。(山田秀三著「アイヌ語地名の研究」には青森から東北地方にかけてアイヌ語地名がたくさん残っていることを実証している。谷川はこの件について、もう少し探求してくれれば日本を相対化できたのにと残念がっている。柳田は山人考の後あっさりと研究の興味がなくなったようだ、と言っている。)

しかし沖縄を発見したということ(伊波普猷は友人)は最大の彼の功績ではないか。沖縄の存在さえ知られていなかった時代に沖縄の民俗を明確に切り取って見せてくれた。特に沖縄は仏教の影響をほとんど受けていないがゆえに古代日本の原像を示唆するもの、儀礼、習俗、言葉がたくさんあった。彼には民俗学の宝庫だった。

この本を読むと柳田國男の印象ががらりと変わる。それは谷川健一という人の見方ではあるが柳田國男という巨人と谷川健一という巨人、二人の巨人のぶつかり合いが面白い。特に谷川はほとんど柳田の跡を実地にたどり一つ一つの彼の言説を確認している。これほど柳田國男にぶつかっていく人はいないだろう。そういうことから我々も民俗学へと目覚めさせられていく。奥深い入門書となっている。

なお、この本で紹介されている種々の本は基本的に重要と思われる。

羽原又吉「漂海民」岩波新書

石井忠「漂着物事典」海鳥社(これは流れよるヤシの実一つで有名な歌の発想のもとになった柳田のヤシの実を実証したものとなった。)

山田秀三「アイヌ語地名の研究」草風館(この山田という人は学者でなく官僚だった。)

スペイン内乱とウクライナ戦争の義勇兵

「カタロニア賛歌」ジョージ・オーウェル、高畠文夫、角川文庫、1975年発行

彼の「動物農場」は高校時代の英語のテキストだったので少し読んだことがあった。すごく面白くて英語の勉強にはなったと思った。特にむつかしい英語はほとんどなくて、高校生であれば簡単な辞書を片手にある程度読みこなせるもののようだった記憶がある。その後「1984年」という小説の題名などに関心はあったが彼の小説はほとんど読まなかった。

なぜ今回読むことになったのか

それはウクライナ戦争問題だ。この戦争が勃発したときに、義勇兵という人たちがいることに気が付いた。それも日本人がその中にいるということだ。ニュースでも取り上げられた。(ネットでは日本人は8人と言われている。その中で元自衛隊員、福岡出身28歳、この方は爆撃を受けて亡くなったようです。また元やくざの40代の方は英語が必須条件であったが、募集場所で親しくなったアメリカ人が助けてくれて彼にはハートがあるということで英語は話せないが採用されたようです。ただこの元やくざの方はカトリックのクリスチャンで爺さんばあさんが殺されていくことに耐えられない、今までの贖罪の意識もあり義勇兵募集に応募したという。)そういうこともあってこの本は義勇兵の話ではなかったのかというちらっと思い出すこともあり、手に取った。(この本は確かに読んでみてわかるが、義勇兵の問題と従軍記者的問題の両方の役目を担っている。私の狭い読書範囲の中では義勇兵の人の書いた本というものは目にしたことがない。)

背景

イギリスからはこの義勇兵は2千人ほど行ったらしい。その中に多くの著名人がいた。特に彼のような作家は多かったようだ。イギリスからw・h・オーデン(詩人)アメリカからも有名人としてはウォルター・リップマン(彼は政治評論家、「世論」で有名、岩波文庫)またヘミングウエイなど。(ヘミングウエイはその後、この経験をもとに「誰がために鐘は鳴る」を書いた。その後大ヒット映画にもなる。)フランスからはシモーヌ・ヴェイユなど。

彼は報道記者、従軍記者としてスペインに入る。これもいろんな理由からフランスから入った。第二次世界大戦前夜の1936年、J・オーウェル、33歳の時。スペインで内戦が発生、これはファシスト軍であるフランコがドイツ、イタリアの支援を受けてスペイン政府に反抗、内乱を起こす。世界政治の中でイギリス、フランスは武器援助協定から離脱しどちらも支援しないという内政不干渉策を取る。このためにフランコ軍はドイツやイタリアからの武器援助によって優勢となり2年半の闘いに終止符を打ちフランコ政権ができた。この時J・オーウェルは反ファシズム的軍隊の側に入り、義勇軍として戦った。この反ファシズムと言ってもいろんな政党や団体があって(国内の義勇兵的存在)一筋縄ではいかない。また後からソビエトの支援も入ってくる。それに加えてソビエトは2000人規模の支援軍隊を派遣したともいわれている。フランコ軍、政府軍、その他の各党、各団体の軍隊などが入り組んでの闘いとなった。

内容、あらすじ

彼が義勇兵で戦う、最初はカタロニアの隣のアラゴンでフランコ軍と闘い、その後バルセロナに戻る。そこでカタロニア広場に通じるランブラス通りで、よくわからない市街戦が始まる。その後政府の政策が関係者の一切の武器の返却を求め始める。その市街戦から義勇兵たちがファシスト団体に所属していたというでっちあげによって秘密警察に続々と牢屋に入れられる事態が発生。彼自身も逮捕されそうになる。何が何だか分からないままフランコ軍との戦いに再度挑戦する。その戦闘中に負傷する。負傷したため戦線離脱となり、証明書などもらい野戦病院に入院、その後除隊。それでも逮捕の危険が迫っていた。まさに単純なる義勇兵的存在ではいられなかった。それゆえに国外への脱出を図る。うまく脱出できた。カタロニアから東の海岸線を走る列車に乗り、スペイン国境を列車で超え、フランスに入る。この時平和をかみしめる。友人はパリへ本人たちはバニュールで降りた。またさらに中都市のベルピニヤンに寄ったところで終わる。(この二つの町の名前はグーグルで確認することができる。フランスのスペイン寄り最南端の町だ。)

この物語の読みどころ

基本的には彼がこの戦いに義勇兵として参加した時のルポルタージュである。

この著書の中に書いてあるが、イギリスに戻ってから5か月たった時点で書いているようだ。

最初は、彼が参加したRPUMという労働者主体の軍隊に所属、そこでスペイン北部の地区でほとんど戦争もない時期を過ごす。これが戦争かと驚く。ほとんど今のウクライナ戦争とは全く似ても似つかないほど平穏な戦争だった。時折聞こえる鉄砲の音も遠いところでなっているだけで臨場感のない戦争だといっている。しかし相手のまでの距離が250ヤードくらいというので、そんなに近いところで、平穏なんてあるのかとは多少の疑問も生じるが。いずれにせよ塹壕堀が主体だったようだ。

ここでは義勇兵という勢い込んで世界中から若者が義憤を感じてやってきた戦場である。どれだけ戦って傷ついてもいいと思っているのにそんなことがほとんどなく現場らしい現場もないまま時間が過ぎる、そんな少しがっかりしたような雰囲気を伝えている。

このルポルタージュの核心はどこか。

やはり市街戦と国際共産主義の活動だ。特にソビエトからの遅ればせの支援というのが本来的には何だったのか。ソビエトの意図はフランコ軍を助けむしろ反動の方向に歴史を捻じ曲げてしまった。このことを彼はつぶさに見知った。まだ社会主義が夢のように理想であると信じられていた時代にである。(この体験から「1984年」を書く)彼はよく観察した。特に彼の記事には事件の真相が分からないと言っているところが多い。しかし真実に近く正確に書くように努めているという断りが入る。実際に海外の新聞の論調はほとんど何も正確に国内情勢を伝えてはいなと言って不満を漏らす。いろんな新聞をやり玉に挙げて批判する。デスクの上でふんぞり返って玉の一発も飛んでこないところで書く記事なんて何の意味もない。また他人のフェイクをそのまま記事にしていると嘆く。

このことが今のウクライナ戦争も同様なのか。ウクライナ戦争でもロシア兵に武器がないとか弾薬がないとか言われている。ウクライナも同様だろう。しかしこのカタロニアではまさに同じことが起こっていた。必要な訓練は全くなく銃の打ち方さえわからないでいるというような、またその武器弾薬も一人に一丁づつというわけにいかず、何十人に3丁とかまずびっくりするようなことが書いてある。望遠鏡が貴重品でフランコ軍の逃げ去った後に残っていた望遠鏡を有り難くもらうシーンなどある。正義というよりシラミや疥癬やとの闘い厳しく、泥沼のような塹壕で何十時間も寝ないでいることが体力的に大変な様子が描かれている。

現在でもウクライナ情勢に関するニュースはたくさんある。毎日だ。しかし現実はちょっと違うんだろうなと思う。私はTBS「報道1930」で毎日このウクライナ戦争のことを聞いているが、本当に防衛研究所の兵頭さんとか東大先端研の小泉悠さんなどの言っていることは正確だろうかと多少心配になる。

全体として

実際に兵隊になってみた記事である。自分も危ない目に遭い彼自身はその戦争の後遺症か47歳で死んでしまう。非常に若い。またその若さゆえなのか自分の危険とか危ないとかの話はほとんど出てこない。死のむごさとかそういうものは一言も出てこない。フランコをやっつけなくてはという感情があふれている。そのため鉄砲も怖くないというようなことが書いてある。一方で開高健の「ベトナム戦記」は従軍記者だからそういう意味での怖さはなかったと思うが恐るべき公開処刑の記事などが書かれている。そういう戦争の悲惨さを描いたものではなく、この時代、まだまだ正義を追求したい血気盛んな若者たちがたくさんこの地にきて正義のために死んでもいいから戦いたいと思った。そういう若々しい、ある意味青春の記事でもある。文体は乾いた空気感に満ちている。そこもこの本の魅力かもしれない。

聖書をどう読む

240307

加藤隆の「新約聖書の誕生」、「新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたか」(大修館書店)

エティエンヌ・トロクメ「キリスト教の揺籃期」(新教出版)

新約聖書とキリスト教の成立の経過についての色々な本

聖書も詩篇第一篇にもう一度戻った。聖書はこのような価値ある言葉で生きている。価値ある言葉が並んでいる。それが人を生かす。新約聖書も同様だろう。聖書の権威とか何とかではない。そこにある良い言葉が人を生かすのである。信仰がなくても生きる言葉だ。それがむしろ信仰なのである。そういう価値ある言葉が人を生かしているから聖書なのである。そうでなければ読めない仏典のようで、ありがたがっているだけのものとなる。加藤隆の新約聖書の誕生、という本の影響かもしれない。またもう一つの彼の著作「なぜギリシャ語で書かれたか」もほぼ「誕生」と類似であるかまたは補完的な本である。まだ読んではいないが加藤隆の先生である、トロクメの本があり、「キリスト教の揺籃期、その誕生と成立」もほぼ同様の内容のはずである。

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求めよさらば与えられんの本来の意味

マタイ7章7節

文語訳

求めよさらば与えられん。

探せさらば見出さん。

叩けさらば開かれん。

岩隈直訳

求めよそうすれば(神から)君たちに与えられるだろう。

探せそうすれば君たちは見つけられるだろう。

(戸を)叩けそうすればそれは君たちのために開けられるであろう。

この岩隈訳はギリシャ語の逐語訳を旨としているので、こういう訳になると考えられる。

この訳が一番正確だろう。

最近ギリシャ語を習っているおかげで、こういう有名な聖句を原語で読む機会も増えた。

そこでこの言葉をギリシャ語で読むと、この翻訳のイメージと全く同じなのか、そうではないのか、が、知りたいし、違うのであればギリシャ語を勉強した甲斐もあるものと思う。

ギリシャ語から見るとどうなるか

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聖書の読み方を教えられる

「空の空」ー知の敗北、中沢洽樹、山本書店、1985年発行

イザヤ書の専門家である、中沢洽樹がこういう本を書いているとは知らなかった。

中央公論者の世界の名著シリーズの新書化された中の旧約聖書は中沢洽樹氏が編集し翻訳もしている。その中になぜか、コーヘレトが入っているのが不思議だったが、その彼の最期のほうの注が非常に印象的であった。比喩を重ねてあり、表向きはきれいな話だがちょっとわかりずらく、比喩を解けば死にゆく老化の話である、という二重構造になっていることを指摘してあった。これがきっかけで彼のその他の本があるのかないのか気にしていると、図書館にこの本があった。

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一見正しそうな予言者ハナニヤとくびきを背負うエレミヤの戦い

現代人はどう考えるか、エレミヤとハナニヤの争い

エレミヤ書27章から28章ハナニヤという預言者との争いについて書かれている。この争いの本当の問題点は何だったのか。

ATDエレミヤ書(A.ワイザー著)の解説から簡単に説明したい。ユダ王国の最後の王ゼデキヤの時代。その前の王であるエホヤキム(残忍な王として有名)はバビロニアに反抗したため敗北し、当時の高官とともにバビロンに連れていかれ捕囚民となった。バビロニアはユダに王がいなくなったので自国に都合の良い王としてエホヤキムの叔父ゼデキヤを擁立した。この王は、どうもリーダシップを発揮するような王の威厳を持ったタイプではなかったようだ。

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