倭の五王を知れば何が分かる

読書ブログ251009
河内春人「倭の五王」王位継承と5世紀の東アジア、中公新書、2018

この本を読了したが、読んだというだけである。この本をかいつまんで説明する事も解説することも非常に難しい。古代史の知識があまりないので仕方ない。
そこで今回のこの本の紹介ではあるが、暫定的なものであり、ごく私的な感想と思ってください。
古代史には非常に興味がある。しかしいろんな本を読んでも出てくる名前の漢字の難しさや読み方が分からないためにどうしても理解が深まっていかない。特に天皇の話になると書いている著者本人はよくわかっているのだろうけれど読んでる側は天皇の順番も知らないので、それもわかってこない。だからざっくりでいいから、1世紀から6世紀くらいまでの分かり安い構造を教えてくれないかといつも思う。つまり古代天皇制はどうやって成立したのか。


そこで自分なりに分かっていることから仮説を考えてみた
大和朝廷というか国家権力が出来上がる時の刻印されたような特徴がある。
多分1から3世紀もしくは8世紀くらいまでは日本列島には日本語という話し言葉はあっても文字はなかった。一方支配層は漢字を使う人の集団だった。漢字だけはあってそれを操れる人達がいた。
法律を作れる人たち、整備された軍隊もあった。中国の秦の時代の遺跡兵馬俑の像のような軍人で甲冑というユニフォームをつけて戦う人たちもいただろう。まさに軍隊だけはすべてに先んじて供えられていたと考えられる。また韓半島とは交流は長く続いている。韓半島との交流は記紀にもたくさん叙述があるように特に百済との交流は頻繁であった。さらに昔の教科書には載っていたが、任那日本府というのもあって、この位置づけも植民地だったのか、出先機関であったのか、よくわかっていない。ここを日本の誰かが実効支配していたならば誰だったのか、と色々通常の古代の中では、交通が不便であることから海外との交流はほとんどなかったんじゃないかと推測するが、実際は頻繁な交流があった。卑弥呼の時代からあった。しかしどのような手段、どのような言葉で、というとなかなか分かってこないらしい。また高句麗や新羅とも戦争をしたようである。誰が行ったのか。これもよくわかっていない。高句麗との戦争では倭国から5万人が出兵したとある。高句麗との二回目の戦争は船団での戦争だそうだ。(これは公開土王碑=高句麗の碑)戦争に関してはかなりの記述があるがどの程度の戦争なのかはわからない。鉄剣はあった。わざわざ海外出兵をするのか。関係ない国に5万人も行って戦争ができるほどの力が倭国にあったのか。それだけの財力があったのか。ある所には韓半島の南部は鉄が取れたのでそれを守るためといってるがそういうことだけなのか。倭国の日本列島で鉄剣を操っている人たちは半島人だったからか、なぜ日本からわざわざ出兵したという理由は書いていない。こいう言うこともよくわかっていない。

多様なかつ多層な人々が日本にはいた
それで構造的には渡来系の人々が高度な技術と文化をもって日本へと長い間をかけてやってきた。それとまた中国から逃げてきた貴族や官吏たち、というエリート層。さらに一般のボートピープルそれに原日本人がいてこれが階層を作っていたのではと思う節がある。
特殊に優れた階層は日本を支配した可能性が強い。しかし原日本人たちで豪族的な人たちもいた。天津神系と国津神系の対立があったが、伊勢神宮の天照大神の神話によって不安定な日本社会を文化的に統合した。一時休戦して国譲りがあった。ある意味強制的に統合したのではないだろうか。しかしこの統合した勢力はやはり原日本人の力ではどうにもならないレベルの高度な科学知識、法律知識、文化知識を持っていたはずである。
と、こんなことを考える人は多いのではないか。

移民、亡命の人々、あるいは攻撃してくる人
さらに言えば東アジアは大戦争の時代である。いつも果てることなく戦争をしている。特に北の北方騎馬民族は非常に強い。強いうえに群雄割拠である。出ては消えというくらいの激しい興亡の歴史である。
倭国は海を隔てているので海外への侵略的な行為は少なかったとも言えるが、倭国から出兵しているという「事実」から考えると、逆に韓半島や大陸方面から逆に攻め込んできてもいいくらいなものである。そう考えてもおかしくはない。蒙古襲来のような激戦がなかったのか、あったのか。蒙古襲来はある意味では日本という統一された政府があった時のことで、この5世紀に統一された国というものがない時代に局地戦があったのかもしれない。戦争で流亡したり避難してきたり、あるいは国が滅びたのであれば国全体の規模で平和な倭国に移民、亡命で来たことも考えられる。それが埼玉の高麗川二も関連し、長野にもたくさん高句麗関係の人たちの遺跡があるという、ことにつながっているのか。
これは江上波夫の騎馬民族征服説を下敷きに考えるとこういうことにもなる。

なぜこの本を読むのか
江上説の現状も知りたい。自分の疑問も解決したい。
結局わからないことも多いがもう少し具体的に知りたいと思ってこの本を手にした。それを紹介するにあたって、何が分かったか、ということである。

何かわかったか
この本の重要な資料は。結局は信頼性のある宋書倭国伝、と広開土王の碑である、基本はこの二つだ。この二つの資料から言えることを書いてある。5世紀の5人の王が次から次へと宋に冊封を受けるために遣いを送って、官爵をもらう。倭国王として認めてもらう。あるいは東アジアの監督権をもらうなどの宋という中国の王の権威を戴くことによって東アジア全域での存在感、とプレゼンスを誇った。結局その5王が誰であったか、どういう人物であったかということを書いている。また東アジアの環境の変化に合わせて強力な肩書が必要だった場合もあり、国際政治がそこで執り行われていた現実をまさにリアルに見せている。
しかしながらこの書き方では、謎の5世紀といわれる時代をはっきりとよくわかるということはないのである。高句麗、新羅、百済、加羅あるいは加那あるいは伽耶などの韓半島南部の諸国の係争などが推定されるのであるが、日本列島で何があったのかはほぼ語られない。
つまり国際環境の変化はある程度分かるし、そのうえでの歴史だということを言いたい感じもするが。倭国の状況は何一つ書かれていない。倭国が日本列島のことなのかもよくわからない。これを読む人はどんな東アジアの状況だったかだけはある程度分かるが日本列島では何が起こっていたかはほぼわからないまま読了する。
資料も少ないこの時代である。分かることは限られている。序文にも書いてある。そいうことではある。しかし現代の学問としての問題意識としては非常に弱いのではないか。

一番に知りたい事は何か
特に多くの読者が知りたいのは韓半島との関係である。騎馬民族は来なかったでもいいが、これだけ記紀にも書いてあるように韓半島のとの関係が深いということに関しては何も言及がない。しかしこの資料だけから歴史を想定するのは難しいだろう。歴史の構想、仮説が必要だと思う。この後読んだ、「騎馬民族の道はるか」(NHK出版1994年)の北朝鮮まで行ったNHKの取材の記録などを読むと高句麗の影響が日本には相当あったという。そこで森浩一は日本にしかなったようなことを言われてきた前方後円墳や石塚墳が高句麗にもたくさんあった。さらに高句麗の都が鴨緑江と言う河の流域にあった。またその河が大河であり水軍を要していた可能性がある。また越の国の継体大王が大和朝廷に招かれて継体天皇になる。この継体大王は福井の九頭竜川のそばに城を築いていた。さらに言えば彼の天皇陵は埴輪に帆船のマーク付きであるという。こういうことを断片的にでも知ってくるとむしろ高句麗や百済からやってきた可能性がたかい。高いところではなく、はっきり来ていたのだろう。埼玉の高麗川もある。韓半島には親戚が大変多かったのではないか。また何語が流通していたのか。8世紀くらいになると通訳専門家の養成所のようなものも出てくるには出てくるのだが、当時は何語であったのか。今の日本語が話されていたのか。

歴史の構想、仮設
またここには歴史の構想というものがない。事実を集めてきてこういうことが書いてあるのでこういうことが起こっただろうというだけの現象的なまとめがあるだけである。これを私は一国史観と言えると思う。東アジアの動向を丹念に拾って傍証として書いてはいるが相変わらず根っこは一国成長史観なのである。一国で発展し倭国からヤマト王権が誕生したとしている。これだけの東アジアの騒乱のなかにいながらなぜ日本だけ一国だけで成長ができたのだろうかという疑問符が付く。

やはり宋書倭国伝、と広開土王碑だけで事実を埋めていくことはできないということだろう。大体古代史の専門家の論説はこういう形が多い。江上波夫の壮大な仮説などは学問ではないといってるようなもので戦後の考古学的な資料が豊富に出てきても、歴史の問題意識は後退しているのだろうか。

投稿者: daiuema

昭和24年東京の浜松町で生まれ、3歳の時引っ越しし千葉市の幕張で育ちました。大学卒業後今のデンカに入りほとんど営業一筋です。ゴルフは31歳から始め現在南総カントリーのハンディ11

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