240307
加藤隆の「新約聖書の誕生」、「新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたか」(大修館書店)
エティエンヌ・トロクメ「キリスト教の揺籃期」(新教出版)
新約聖書とキリスト教の成立の経過についての色々な本

聖書も詩篇第一篇にもう一度戻った。聖書はこのような価値ある言葉で生きている。価値ある言葉が並んでいる。それが人を生かす。新約聖書も同様だろう。聖書の権威とか何とかではない。そこにある良い言葉が人を生かすのである。信仰がなくても生きる言葉だ。それがむしろ信仰なのである。そういう価値ある言葉が人を生かしているから聖書なのである。そうでなければ読めない仏典のようで、ありがたがっているだけのものとなる。加藤隆の新約聖書の誕生、という本の影響かもしれない。またもう一つの彼の著作「なぜギリシャ語で書かれたか」もほぼ「誕生」と類似であるかまたは補完的な本である。まだ読んではいないが加藤隆の先生である、トロクメの本があり、「キリスト教の揺籃期、その誕生と成立」もほぼ同様の内容のはずである。
内容
基本的にどういう内容かと言えば、初期のイエスの死後のエルサレム在住の人たちでかつユダヤ人で、イエスの考え方を継承しようとする人たちは、彼らはユダヤ教のままでいたのである。かつ彼らはイエスの新しい思想を何らかの形で残そうとはしなかったようである。文書にはしなかった。それが死後50年60年後100年後にギリシャ語で書かれたものが出てきた。ギリシャ世界はこのイエスの言行を文書で残し始めてきた。ここにユダヤ人がヘブル語でイエスキリストについて書いたものがないという疑問もある程度分かる気がする。そこにパウロも登場していた。しかしこの頃もまだユダヤ教の一派に過ぎなかったようである。パウロもエルサレム教会とは仲たがいなどして重要性は消えていたが、その後パウロ書簡が発見されて、見直されたようである。だからパウロの書簡にはイエス像、キリスト教への考え方、終末論的な考え方などいくつもの矛盾があるようでありそれは彼がキリスト理解の進展に即して変化してきたとも考えられる。そして紆余曲折を経て現在のようなキリスト教というユダヤ教とは一線を画した宗教というものが成立したのである。成立した過程そのものは、紆余曲折であり、何が残って何が消去されてきたのかも歴史のあざなえる縄のようなものである。
この本を読んで考えるべきこと
そこで自分としてはキリスト教という宗教が一直線で成立したものはなくて、大きな変動と取捨選択の歴史に委ねられどうなるかわからなかったという、加藤隆、トロクメの考え方が事実とすれば、われわれもこう考える必要が出てくる。
一つは、聖書、特に新約聖書の権威問題については、これは内容そのものが神の存在を伝えていて本当に真実に関して説得力があるから読むのである、ということ。また一言一句はある意味神の言葉ではなくて人間の言葉である。逐語霊感説というものに反して、人間の言葉であるから間違っていることもあるし、わからなかったという事もあるだろう。また筆写の過程でのミスの混入、意図的な捻じ曲げなどもあったであろうという感覚は必要だと思う。
また各著者とのイエス像やキリスト教の考え方で整合性がないと言われていることに関してもそれが当たり前であり、矛盾しているのは当然である、という感覚も必要である。
しかしありがたがって聖書を読むというより、著者の本当の言いたい事は何かを探って読んで行く必要があるのではないだろうか。それだけでも聖書は有益な書物であり続けると思う。神の存在の神秘的な重要性についてイエスの言行録であるマタイ伝、マルコ伝等々について本当に読む力があれば中身を分かってくるのではないだろうか。読む力があればと言ったが、その人の持つ力量に応じて答えてくれる本である。こんなに世界の秘密を書いてある本はないのであるから。もっともっと理解するために読んでいく必要がある本だ。これは間違いがない。