求めよさらば与えられんの本来の意味

マタイ7章7節

文語訳

求めよさらば与えられん。

探せさらば見出さん。

叩けさらば開かれん。

岩隈直訳

求めよそうすれば(神から)君たちに与えられるだろう。

探せそうすれば君たちは見つけられるだろう。

(戸を)叩けそうすればそれは君たちのために開けられるであろう。

この岩隈訳はギリシャ語の逐語訳を旨としているので、こういう訳になると考えられる。

この訳が一番正確だろう。

最近ギリシャ語を習っているおかげで、こういう有名な聖句を原語で読む機会も増えた。

そこでこの言葉をギリシャ語で読むと、この翻訳のイメージと全く同じなのか、そうではないのか、が、知りたいし、違うのであればギリシャ語を勉強した甲斐もあるものと思う。

ギリシャ語から見るとどうなるか

「求めよ」は、あなた方は求めなさいという命令形である。

そうすればは、まさに命令形の後に来るANDでそうすればという訳となる。

次に問題は与えられるだろう。この言葉である。

この言葉は、未来形であり受け身である。つまり受動態というものだ。

主語が三人称単数となっており、何かが、将来与えられるだろう。何かは伏せられているが、当然求めるものが、という意味だ。汝らに、このあなた方にという訳が大体は抜けている。岩隈訳のように神からを( )に入れて訳すことは可能だろう。

つまりここには、求めれば得られるという考え方ではないということなのだ。

神に求めよ、そうすれば神からあなた方に求めたものが将来与えられるだろう、という言葉である。だからこの言葉はあまり一般化できない。神から求めたものが許されて与えられる、人間のほうは受け身である。つい見逃しがちなこの受け身であるこの言葉が受け身であるがゆえに重要であるということだ。この構造こそは信仰そのものの要請と重なっている。

次の探せは、これも命令形、見いださんは2人称複数形の未来形であなた方は見つけるだろう、という意味で、ここは探すという行為があれば将来みつけだすだろう、という意味である。「あなた方に」、は書かれていないが、2人称の動詞ということで省略されているのだろう。ここにも( )の中に神の許しがあれば、ということだろう。小鳥1羽も地に落ちるのに神の許しがいるのである。

次の叩けそうすれば開かれんは、「汝らに」、という言葉が使われているので本来入れておくべき語句であろう。開かれんは、受動態、未来、3人称単数の動詞が使われている。ということは我々が開いていく、ということではなくて、戸が、主語である。戸が、叩くものに対して、将来開かれるだろう、という意味である。ここにも人間の我々が主体ではない、ということが言われている。この受動態からすれば、神の許しがあればあなた方に対して戸が開かれるだろう、という意味となる。

この人間に対する希望の言葉が実は神が主体であり、われわれ人間が未来に受けるということを全体的には意味していることを考えると、まさに信仰の構造である。神が神を信じるものを許すのである。そういう信仰の構造である。

しかし、命令されている、求めること、探すこと、戸をたたくことは、神の命令である。それは我々が主体的にしていくべきことなのである。我々のDOが要請されている。神から。そう考えるとこの言葉の含蓄の深さが身に染みてくるようである。そしてこの言葉を感謝して受けるべきということになるだろう。

マタイ伝7.7の奥の深い言葉の一端がギリシャ語から垣間見られたのではないか。

投稿者: daiuema

昭和24年東京の浜松町で生まれ、3歳の時引っ越しし千葉市の幕張で育ちました。大学卒業後今のデンカに入りほとんど営業一筋です。ゴルフは31歳から始め現在南総カントリーのハンディ11

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