ヘブル語の勉強をしている中で詩編も連続的に最初から勉強中である。今は先生がいないので、ヘブライ語聖書対訳シリーズの詩編と月本昭男「詩編の思想と信仰」、岩波版「旧約聖書、詩篇」などを読んで勉強中である。心にひっかかる詩編を見つける。


今回は詩編11編を取り上げる。
この詩篇は、鳥のように山へ逃れよ、という語句で有名な詩である。ある意味、この言葉がキーになってこの詩を勢いのあるもの、動きのあるもの、全体として躍動感のあるものにしている。
1、まず訳語について
この詩篇の中で非常に重要なのだが、意味がはっきりしない箇所があるのでそこを中心に取り上げる。
3節「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何が出来ようか。」
秩序;というのは基礎とか土台とか柱という意味の言葉で相当意訳しているとみる。また主に従う人;という言葉も相当な意訳である。これは正しい人という言葉が使われている。この言葉は正しくするとか裁くとかという神が主語の動詞を名詞化しているものである。確かに主に従う人という訳はこれも意訳であるが間違っているとは言えない。
2、3節の訳について
その次の言葉である。「何が出来ようか」、という言葉は、非常に多くの訳が可能である。「何をしようとするのか」「何をしたのか」「義人は何をはたらいたというのか」月本訳、「何をなしたというのだ」岩波訳、「義人は何ができるのか」NEB訳
ここでは3つの意味で分かれる。
①危機の時なので義人ができることはない、という意味で「何が出来ようか」(多数の訳)
②義人が、何か悪人に変わってしまったので危機の時になったというのか、という意味で「何をなしたというのだ」(あえて言えば岩波訳)
③危機的状況になったのは、義人が何かをしたというのか?という反問ととる。いや何もしていないという意味で「何を働いたというのか」(月本訳)
まあ、いずれにせよ分かりにくい。
3、その解釈
この状況の中では、「鳥のように逃れよ、、、、、基盤が崩されているのだから、もう義人にはできることはない」という意味に解釈するのが一番分かりやすい。分かりやすいが正しいかどうかは分からない。
一方で月本訳はイスラエルの基盤=宗教倫理が崩れようとしているのは、義人が何かしたのか?義人が何か変わったのか、という意味と捉える。また岩波訳「真に根本が崩れようとしているのだ、義人が何をしたというのだ。」という訳である。これも月本訳と類似している。(②,③の訳)この二つの訳は、鳥のように逃れよというけれど逃れてどうするのだ。イスラエルという基盤が壊れそうになっている。義人が何かしたのか、義人が悪いことでもしたからイスラエルの基盤が変わってしまったのか?逃げろというのか、義人は、いや悪いこともしていないのに逃げる必要はない。逃げない、という意味に解釈する。
4、私の解釈
ここで一番合理的な解釈を考えてみる。
①月本訳の「義人は何を働いたのか」訳に導かれて考えると、3節の「世の秩序が覆っているというのに」というところの「覆っている」というのは、ニフアルという受け身の未完了形の動詞が使われている。正確にいえば「基本(あるいは根本)が崩れようとしている。」と訳すことが可能である。
つまりその前に、悪人が義人を殺そうと狙っているというそのこと自体が、世の基本、根本、根幹が狂っているという認識である。その見方が基本が崩れようとしているとの認識に至らせた。だからこの認識は作者、詠み手である。そこで次にこの詠み手は「義人は何をしたか」という問いを発する。ここは月本訳では完了形動詞の意味を汲んで過去形に訳す。何が出来ようかという訳は本来はあり得ない。
何をしたのか、という言葉が次の節に続く。次の信仰告白につながるのである。
②伝統的解釈は、詠み手に勧告する「あなたたち」の言葉として「鳥のように」から3節末までを含める。そうするとこの詩全体は分かりやすくなる。友人が勧告をしてくれたが、そうはいかない。自分の信仰はその程度じゃないんだ。神は力があり、正しいことを正しいとする神である、という詩となっており、あなたたちのか勧告を私は受けない。神はどこまで行っても信ずべき正しい神であるのだからそこに本来的な救を求めるべきである。山へ逃げろというのはおかしい、という解釈が成立する。
要するに、ここではイスラエルという国の秩序が壊されているのだから、信仰あるものは山に逃れたらどうかという事である。信仰あるものがすることはもはやない、と言ってる。という事を友人であるあなたたちが言っているという事だ。つまり勧告をもらったのである。
しかし、このダビデは反対に天にいる神を信じ、天にいる神の行為にゆだねようという確信と信仰を表明したのである。
基本的にはどちらの解釈も可能であるが、「何をしたのか」という言葉を主体的にとらえるかどうかにかかっていて解釈が変わるのである。
4、全体としてみると
つまり世の中の根幹が狂っているというのは、悪人が正しいものを殺すために狙うなどという事が許されるはずがないと思っていた社会観があって、それが崩されていくのをみると世の中はおかしいから早くあなたも逃げなさいという勧告があったということだ。
しかしこういう事は世の中に一般的にあることだろう。悪人が国家を牛耳る、というようなナチズムのようなときもあったのだ。だから逃げろというのか、という事である。今ではコロナである。我々は何をしたのか、この言葉が響く。そういう時に他人が言い、自分もそう思うような、世の中のおかしい、おかしいという気持ちから、この矛盾、この悪を無視したり、見ないようにしたりしたいということがあるだろう。しかしここの作者は冷静だった。逃げる必要がこれっぽっちもないという事が確信として出てきた。神の力、正しさ、神の恵みを考えると自分は心のまっすぐな人間でいようと思うのである。だから「逃げないという事をした」のである。
参照;さらに参照した古いところでは、浅野順一「詩編選釈」、矢内原忠雄「詩編」、高橋三郎「ダビデの歌」関根正雄「詩編」などがある。