種まく人

種をまく人

詩編126編5,6節

涙をもって種まくものは、

喜びの声をもって刈り取る。

種を携え、涙を流して出ていくものは、

束を携え、喜びの声を上げて帰ってくるであろう。(口語訳聖書)

これは126編の中では強烈に響く、人の内面に深く刺さるように伝わってくる言葉だ。

この2節ゆえにこの詩篇は有名になったといってもいいだろう。

この翻訳も名翻訳といえるものである。

ただいつも感じるのは、名翻訳であるとその持っている言葉の重要性がある程度かすんで行くことがある。あるいはそのぎこちない言葉ゆえの力強さというものが失われる可能性もあるので、こういう詩をもう少し理解しようと思って取り上げる。

1、ミレーの種まく人

まず、種まく人というミレーの絵がある。岩波書店のマークである種まく人も同様で、本来はミレーは種まく人の、イエスの言葉、マタイ伝、マルコ伝のたとえの言葉を象徴して書いたともいわれている。この絵は暗い、しかし力強い。ミレーのこの時期の気持ちが表れている絵である。本来的にはこの言葉はこの詩篇126から来ている。こんなに明確に種をまくという事を正面から取り上げた言葉もない。

2、本文

まず本文を読めばこの詩の環境というものがわかるが、要するにまだ喜びをもって収穫もしていないし、喜びを持って帰ってきてもいないのである。だからこそ意味がある。泣いて、種をまく、どうなるかわからないこれからの近い将来、うつむいて、泣きながら種をまく、しかしそれは豊穣という結果にしたい、そしてそうなるだろう、という内容である。

翻訳上の問題としては、5節は涙をもってと喜びをもって対句となっている。また種をまく、収穫するが対句である。順番を言えば,A,B,B’、A’という感じである。

6節は、具体的に、種の袋を担いで、泣きながら出ていくことを出ていくという強調的となっている。また喜びをもって(収穫の)束を担いで、帰ってくることを帰ってくる、これも強調的となっている。(担ぐは同じ言葉、喜びは5節とは違う言葉)

5節と6節とはいわゆる平行法である。パラレルになっている。同内容を違う言葉で表現したものである。

3、結論

我々の人生を振り返ると、このようになってほしいと願う。涙と苦痛の中に生きたとしても最後は喜びに満たされて終わりたい。我々の人生はそうなっているだろうか。そうなるだろうか。そうならなければならない、と言いたい。ユダヤ人は泣いた。我々も泣いてきた。だから我々はこの言葉をかみしめたい。

投稿者: daiuema

昭和24年東京の浜松町で生まれ、3歳の時引っ越しし千葉市の幕張で育ちました。大学卒業後今のデンカに入りほとんど営業一筋です。ゴルフは31歳から始め現在南総カントリーのハンディ11

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