災いの日には神を見よ!

コーヘレト書(7章13から14)

(月本訳、岩波版旧約聖書)

神の業を見極めよ。
彼が曲げたものを、だれがまっすぐできようか。

幸いの日には幸いであれ、
災いの日には(災いを)見つめよ。

人間が後のことを何一つ見極め(られ)ないようにと、
神はあれもこれも作り出したのだ。

(日本聖書協会、1955年改訳)
神のみ業を考えてみよ。
神の曲げられたものを、
だれがまっすぐにすることができるか。

順境の日には楽しめ。
逆境の日には考えよ。

神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、
彼とこれとを等しく造られたのである。

日本聖書協会訳は名訳だろうと思う。しかし名訳が正確とは限らない。

「順境の日には楽しめ。
逆境の日には考えよ。」

こういうように訳されると考えるまでもなくその通り、いいことを言うな、で終わりそうな名文句または格言のようにも聞こえる。そうなると「考えよ」という言葉が宙に浮く。何を考えるのか。おかれた逆境の意味を考えよというようにとるかもしれない。

しかしこの文章は全体として、この2節を考えると、協会訳は「神のみ業を考えてみよ」月本訳は「神の業を見極めよ」から始まっている。つまり神のみ業はその意味がなかなかわからない、という趣旨のことを伝えようとしている。

だからこういうように解釈できるのではないか。

 月本訳のように幸いの日と災いの日がある。これは神が人間に将来何が起こるのかどんな日になるのかを分からせないために、二つの日を作ったと解釈できる。我々の日々は良い日と悪い日がある。どうなっていくかはわからないのである。明日は分からないというところに人間を神は置いたのである。

 この逆説をどう理解するのか。これが聖書の聖書たるゆえんでもある。神のことはすぐ理解できないのである。イザヤ書にも6章9節「言ってこの民に言え、聞き続けよ、だが悟るな、見続けよ、だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その目を固く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返って癒されることのないように」という逆説の預言を神から命じられるところがある。イザヤは本当に困惑して「いつまでですか」と問う。こういう個所は聖書的といってもいいくらいにたくさん出てくる。しかしこの言葉は非常にリアリティをもって聞けるのである。

 重要なのは災いの日の行動である。

災いの日には(災い)を見つめよ、とある、この「見つめよ」という言葉が非常に重要となる。(災いという目的語はない。)見るという言葉の命令形である。そのあとに出てくる将来を「見極められない」の見るという言葉は見つけるという意味でわかってしまうという訳が可能な言葉だ。この「見極める」とは違う。見つめる、知る、考慮する、反省する、知覚する、というような意味の言葉である。端的にいえば見るである。最初に出てきた「神の業を見極めよ」ということばの「見極めよ」は同じ「見る」という言葉を使っている。単純に訳せば「神の業を見なさい」である。だから、私の説では、論理的に考えると、神のことは本当によくわからないのであるから何を見るかといえば、悪い日には神(の業)を見よ、といっていると推定可能である。悪い日には神のわからない行動をよくよく見なさいという事を言っている。

 我々は神によって明日のことがわからないようにされている。神はそのように人間に対して矛盾のある逆説的な行動をする。だからこそ神を見るのである。人間の方を見てもわからない。神を見るのである。いまもまたそういうことがいえる状況である。背後にある神の意志、神の計画、神の業を見なさい、といっているようである。だからこの言葉は格言風であるが、そうではなく、考えさせるために言われた言葉である。非常に含蓄の深い言葉ではないだろうか。しかし名訳になると大事な所が我々の印象から消えていくのである。

投稿者: daiuema

昭和24年東京の浜松町で生まれ、3歳の時引っ越しし千葉市の幕張で育ちました。大学卒業後今のデンカに入りほとんど営業一筋です。ゴルフは31歳から始め現在南総カントリーのハンディ11

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