イザヤ書40章、10,11から
見よ、主なるヤハウェを。
彼は力を帯びてこられ、
ご自身のためにその腕が統べ治める。
見よ、彼の報いは彼とともに、
またその報酬はその前にある。
彼は羊飼いのようにその群れを飼い、
その腕に子羊たちを集め、懐に抱き、
乳をのませる羊たちを導く。
(岩波版、旧約聖書Ⅶ、イザヤ書、関根清三訳)
ここから、神の短い描写が入る。前節で「見よ、あなたたちの神を見よ」、とあるのを受けている。この2節は非常に対照的な文となっている。
10節は強権で結果を出す神というイメージである。誰にも支配されない、唯一の神は報いが自分の報いのために、強権で世界を支配する。そしてその結果は神そのもの自分に与えられる、という。どちらかというと俺が俺がというタイプに見える。
次の11節は10節に反して、ものすごく優しい神である。しっかりと経営もし、こどもたちを育てていく父親的なあるいは母親的な柔和なイメージが喚起される。
特に、「腕」が両節に出てくる。この腕は、力ずくの腕で結果をどんな犠牲が出ようと出すという腕である。ところが、次の節ではその同じ腕は、子羊を懐に抱くのである。
特に原文では、懐に抱く、というところが、懐に持ち上げるとある。また乳をのませる(羊たち)ものを導く、とあるのは、養うという事である。懐に抱きあげて乳を飲ませて育てるのである。どれほど人間的な、あまりに人間的な、やさしいイメージがここには明らかに出ている。これはイザヤの発見した神だ。
ここにイザヤの見る神は二面性を持っているのである。世界を神の力で実現していくというブルトーザーのような強力な、強烈な、エネルギーにあふれかつエゴイストのような力の神、と一方では先に述べたように優しい人間味にあふれる家庭の両親のような神なのである。この神のイメージは新しい、新鮮だ。モーセの神を知ってる人たちは驚いただろう。ここにイザヤは神の真実を見ている。
イザヤ書は全体として、この多義的というか二面性をいつも強調してやまない。しかしそこに重要な真実が隠されている。それを発見するのが聖書を読むという事ではないか