イザヤ書40章6節から、(日本聖書協会、新改訳)
「呼ばわれ」というものの声がする。
私は「なんと呼ばわりましょう」と答えた。
「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと
草は枯れ、花はしぼむ。
真に、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ」
岩波版関根清三訳
「呼びかけよ」、というものの声がする。
私は言う、
「なんと呼びかけようか」、と。
「総て肉なる者は草、
総てその愛は野の花のようだ。
草は枯れ、花はしぼむ、
ヤハウェの霊風(いき)がその上に吹くならば。
この民はまさに草である。
草は枯れ、花はしぼむ。
だが我らの神の言葉は、永久に立つ」
この個所は人間の力は弱い、神が助けなければ人間は生きられない、という捕囚の人々へのメーッセージがこれから始まろうとしているところである。
預言者の召命
ここは、ATDのヴェスターマンの第二イザヤによれば、預言者としての召命の個所であるという。そして、預言者というものは、類型的には、神に預言者として強制的に従わせられるのである。その時、預言者としてはいったん躊躇するところがある。これは第一イザヤでは、6章5節に「ああ、私はダメだ・・・」という個所があるので参照していただきたいが、神から召し出されたものはこのいったん躊躇するところが原則的にあるという。その預言者が躊躇する箇所がここであるとヴェスターマンは見ている。要するに自分も人間であり肉だ。神がその上に息を吹きかけると砂漠の草はみんな枯れるがごとくに苦難の中では自分の信仰も絶えるのではないかという預言者なりの嘆息であるというのである。だから慰めよという神の命令を素直に受け入れることができるだろうか?というイザヤの呻吟なのだ。
草と野の花が枯れる意味
そのことはまた別の意味をもって重要であるが、この個所は対句で繰り返され強調されているところで修辞的といっていいだろう。
総ての肉は草だ。→草は枯れ →草は枯れ
総てのその愛は野の花のようだ。→花はしぼみ→花はしぼみ
それぞれ草が三回(草は挿入された箇所にプラス1回)花が三回出てくる。リフレインである。どれだけ強調しても足りないくらいこの枯れる草と花の問題が大きいか、という事でもある。
関根清三訳の愛という訳は、よきものというようにも訳される。意味を広げると人間の持つよきものといってもいい訳も可能である。当然、新改訳の方の栄光という訳も可能であるが、「その」ではなくヘブル語には「すべて」のという言葉がついている。栄光という言葉は神に対して使われる言葉であるからそれが枯れるとはこの預言書の趣旨をなさない。栄光という訳はチョット問題かもしれない。
結論的に
結論的にいえば、ここでは人間は自覚していないが、自分が何かを持っていると思っているものは本当は何もなく限りなく弱いという事が言われている。さらに人間の持っている良いものという野の花にたとえられる美しいものでさえ、枯れ果てるのである。捕囚の民に語っているのであるから、現実的に預言者はそのことを痛感しただろう。バビロンという異国で捕囚の民として遇されれば信仰もヤハウェもないという人も多かったのではないか。バビロンの習慣に従わなければ生きていけないのでその習慣にことさらに合わせるという現実的な人も多かった。(バビロン捕囚の悲しさが出ている詩編がある、詩編137編、バビロンのほとりにすわり泣いた、とあるるるるいる)
神の霊風(いき)
神の霊風が吹くと人間のあまりの弱さが露骨に現れる。又そのことが自覚される。
それは神の霊風が吹けば、なのである。神の霊風がない時は意気揚々とできるのである。現実主義者のようにバビロンに合わせて自分の不本意ながらも生き方を変えることも可能である。支配者であるバビロンの人々もそうだろう。
だからこの我々の現実もよく耳を澄ませてこの人間の弱さを知る必要がある。神の霊風が吹けば人間は枯れるのである。その時になって初めて人間の力が何もないことを知るのである。そして壮絶に枯れていくのである。厳しい審判である。このことを知っておく必要がある。しかし、これは恵みの序曲でもある。これから始まる恵みという壮大な神の力が限界なしに、出てくる序曲なのである。
だから混乱が世界に広がっているときにこの両面で現実を冷静に理解しなければならない。絶望的な現実、審判の如き世界の情況を見て何を自分の基準にして考えるか、行動するか?我々にはそれが問われている。