神の激しさを垣間見る

イザヤ書40章1節

慰めよ、慰めよ、我が民よ、あなた方の神は言った。

あなた方に語れ、エルサレムの心に向かって。そして彼女に向かって叫べ。

苦役は完全に終わった、彼女の不法は許された、すべての彼女の罪の2倍のものをヤハウェの手から受け取った、と。

(岩波、イザヤ書関根訳の注にあなた方に語れ、という言葉は口説くとも取れる言葉である、という事を書いている。当該箇所参照してください。)

まず「慰めよ、慰めよ」は、繰り返されているうえに、ヘブル語ではピエルといって強意を表す言葉である。激しい言葉が神から発せられたのである。神が自分を責めるかのごとき言葉が発せられた(ともいえるのではないか)

次に大重要な点がここにある。

エルサレムの心に語れ、という個所である。誰誰に語れというのは、普通はヘブル語ではspeak toJERUSALEMでいいわけである。そこにあえて「心」に語れという言葉を盛り込んだ。「心」という言葉はむしろエルサレムの内面(心というヘブル語レブはinnerという意味がある)に語れ、といっている言葉である。つまり当然ではあるがエルサレムという地名を言っているのではない。エルサレムという言葉に比ゆ的に言われている捕囚の民であるユダヤ人一人一人の顔が浮かぶ言葉が使われている。何と繊細な言葉だ。この「心」を使っただけで神の繊細で深い愛というものが隠れながらも見えてきそうな個所である。

この激しさ、まさに神の言葉ゆえなのかと思わせられる。そして彼女が許される内容を叫んで言えという。この叫ぶという言葉は、創世記で神が光あれといって光を昼と名付けた、というその名付けると同じ言葉が使われている。意味と価値と存在を生む言葉である。

そして最後に、罪の2倍に値するものを神から受け取ったという。神の恩恵が自分の罪の2倍あったという。どのくらいのものか。想像もつかない財産を受け取ったのである。神の力には限りがない。財産はいくらでもある。無尽蔵な神の恩恵という事である。

聖書の底知れぬ奥深さに驚嘆する日々である。

投稿者: daiuema

昭和24年東京の浜松町で生まれ、3歳の時引っ越しし千葉市の幕張で育ちました。大学卒業後今のデンカに入りほとんど営業一筋です。ゴルフは31歳から始め現在南総カントリーのハンディ11

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