ある程度正確な状況がわかるように二つの翻訳をここに引用しておく。
イザヤ書7章1から4節。
1、ウジヤの子ヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上ってきてこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。
2、ところがエフライムにアラムがとどまったという報告がダビデの家に告げられた。すると王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。
3、そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シュアルヤシュブとは出かけていって布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、
4、気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたはこれらの二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心をよわらせてはいけません。(新改訳)
1、エルサレムを攻めるために上ってきたが、攻撃を仕掛けることができなかった。
2、しかしアラムがエフライムと同盟したという知らせはダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
3、主はイザヤに言われた。「あなたの息子のシュアル・ヤシュブとともに出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う上貯水池からの水路のはずれでアハズに会い、
彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムとレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残っていくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」(新共同訳)
注)エフライムとはイスラエルをさしている地名、アラムとは現在のシリアの地域でこのいま攻められているユダの隣接国家である。
要約
この個所を簡単にいえば、ユダの王アハズ(BC755から715くらい)の時代に、隣のイスラエルとアラムとが結託してユダを攻めに来た。その知らせを聞いた王と国民はおびえて大きく心が揺らいだ。王は心配して戦争の備えのために水道を視察しているときに、神はイザヤに自分の息子を連れて王に言えという。静かにして神を信頼せよ、と。これを預言的にいった。この後にアハズという王は神に試される箇所が出てくる。
ここの文章の巧みさ。
敵はユダを攻めるために同盟関係を結び攻撃の準備をして、隣国のイスラエルに駐留しているのではないかという事が伝えられたため、国内は恐ろしいこととして風で(風の前または風の先で、という言葉が挿入されている。ヘブル語)木々が揺れるように王と国民の心が揺れたのである。ヘブル語では木々が揺れるのと国中が揺れるという、揺れるという同じ言葉を使っている。この大不安とパニックのような状況に対してイザヤが静かにしなさいという。この対比のうまさに感心せざるを得ない。危機的雰囲気が露骨に出ているところである。また神がイザヤに命じてアハズ王に会う場所の細かい場所の指示が本当に臨場感を醸し出している。また二つの燃えカスという表現、煙っている燃えカス、非常に馬鹿にしたようなこのリアルな表現も心の奥底に響いてくる。
なぜこの個所が重要か
この個所は旧約聖書の中でも非常に重要な個所ではないかと私には思われる。まさに今シリアでの内戦や香港の問題やチリの暴動やその他の紛争地域などの政治問題がたくさん起きている中ではまさにこの箇所が何か重要なことを示唆しているような気がする。これは聖書が語っているから、一義的にこう考えなければならないという公式的答えはないし必要でもなく、一人一人に与えられた神の深い疑問に応えるように用意されたような個所である。それは信仰とは何か、という事だ。アハズは神に問われるのである。そのあとの個所で。カイル&デリッチはこの時の答えが2000年を超してイスラエルの方向を決定してしまった、というくらい重要であったという。それはともかく、アハズに聞かれているのではなく自分に問われているのである。