詩編23編
ダビデの歌
ヤハウェがわが牧者、私には欠けるものがない。
若草の牧場に彼は私を憩わせ、
憩いの水辺に私をともなう。
わが魂を彼は回復させ、
義の道筋に私を導く、
彼の名のゆえに。
暗黒の谷を私が行くときも私は災いを恐れない。
あなたが私とご一緒だから。
あなたの鞭(しもと)とあなたの杖、
これらこそ私を励ます。
あなたは整える、我が前に食卓を
私を攻める者らの正面で。
あなたは油をたらした、我が頭(こうべ)に、
我が杯はあふれている。
良きことと恵みのみが私を追う、わが命のすべての日々。
そしてヤハウェの家に帰ろう、長き日々にわたって。
(岩波、旧約聖書、詩篇、松田伊作訳)
この詩は最初の方と後半では全く様相が違っていて、前半部分は牧歌的であるが後半は闘いの中にいるものの状況のようにも感じて違和感があった。
この詩篇は非常に有名である。特に前半がそうなのである。キー語として
野に伏させたもう。
神は魂を生き返させる。
暗黒の谷をあゆむとも、
恵みが追いかけてくる。
魂の安らぎを与えてくれる神、しかし神の懲らしめも感謝だ。義という神の道にいつも連れ戻してくれる。そして敵の前で祝宴を張ることも可能である。恵みが本当に沢山ある。
要約すると神への信頼がどこまで行ってもある、という内容である。牧歌的イメージと暗き谷、死のイメージとが対比されている。困難があるがそれも神の恵みだと思う、そう思っていると神は恵みを無尽蔵に下さる、という内容だ。
この詩の最初の違和感は、後半部分を読む事で解決する。牧歌的イメージというのは、羊飼いという言葉によるのである。神は羊飼いである。私は羊だ。しかし単なる羊ではない。後半部分を参照するとわかるが闘いにいる羊である。ダビデのことかはわからないが、戦闘中の身である。戦闘中の兵士が神は羊飼いと思い自分は羊である、そして神は私の魂を安らぎの場所に連れて行ってくれてこの戦闘中の緊張と疲れを取り去り給うのである。そしてどんな極限状況にいてもそれは神の恵みであることを知っている。そしてそう思っていると敵の前でゆったり祝宴を神が準備してくれる。これほどの余裕なのである。自信に満ち、戦うことに何の不安もない。カップに恵みという酒が注ぎこまれあふれるほどの満杯になるという。
多くの注解書にはこの私が兵士とは書いていない。この解釈は間違っているかもしれないが、
旅人という解釈もあるが、そうすると後半部分と整合性がない。苦難の中で闘う人ととらえるのが自然ではないか。